2024年11月02日

抑留伝える 孫世代 舞鶴で語り部

 祖父がシベリア抑留を体験した東京大田区の日本大学3年今野拓実さん(22)が舞鶴引揚記念館の語り部で唯一の東京在住者として抑留体験を語り継いでいる。と10月31日の読売(波多江一郎記者)が夕刊で伝えている。

 戦後79年というタイトルで、アジア太平洋戦争をさまざまな視点で伝えている読売が今回は、抑留者らが帰り着いた京都府舞鶴市にある舞鶴引揚記念館で語り部をしている若者に着目している。

 舞鶴市にある舞鶴港は終戦直後の1945年10月から引き揚げ船の受け入れを始め、58年までに約66万人を迎え入れた。そのうち46万人がシベリア抑留者で、市民らは日本茶やふかした芋を振る舞い、帰国を歓迎したという。
 引き揚げの歴史を伝える拠点として、市は88年、港を見下ろす丘に舞鶴引揚記念館を建設。抑留体験者らから寄贈された1万6000点の資料を収集する。
 2015年には白樺日誌など570点が、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録されている。

 高校の課題で祖父のことを調べる機会があった今野さん。祖父の本籍があった宮城県に掛け合い、軍歴証明書を取り寄せた。結果、陸軍に所属し、北方領土択捉島の北方にあるウルップ島で終戦を迎え、間宮海峡沿岸のソビエツカヤカバ二の収容所などに連行され、3年半にわたり強制労働させられていた。
 同じ収容所にいた抑留者の手記を読み、酷寒の地でわずかな黒パンとカーシャと呼ばれるスープで食いつなぎながら、鉄道建設する元兵士の姿が祖父に重なった。

 戦争が終わったはずなのに氷点下30度の吹雪の中、折り重なるように斃れていった人たち。
 「その存在が忘れ去られてしまう。若い自分が語り継ぐ必要がある」と決意。舞鶴引揚記念館の学生語り部に応募した。東京から夜行バスと在来線を乗り継いで講習を受け、高校3年から本格的に語り部となった。


 シベリア抑留を取り上げるとき、紙面に解説が掲載されるが、57万5000人が抑留され、5万5000人が死亡したとされるといつも書いてある。
 2024年8月20日の読売、「捕虜で賠償」「戦利品扱い」という見出しで伝えたシべり抑留について、取り上げられた記事で、多摩大学准教授の小林昭菜さんが45年の12月の軍最終報告資料で61万1237人と現時点で一番正確な抑留者の数字を出している。
 紙面にも読売は反映させるべきだ。
 今野さんの祖父が抑留者だったことを調べることに父親は反対したそうな。

 実は、自分の父親が南方の戦地から無事に帰ってきたが、1965(昭和40)年の夏、病死した後、数年後、戦地での父親のことを知っているという東京は日野市の長谷川さん?だったかから手紙が届き、興味、関心を示したら、母親が「そんな人のことは聞いていない。亡くなった人のことを今さら、調べるのはやめろ」と止められ、父親の戦地でのことを調べることはやめた経緯があった。

 父親の反対を押し切って祖父のことを調べ上げた今野さんにエールをおくりたい。
 2013年10月31日、所用があって大阪に行った折、舞鶴に行き、引揚記念館に行ったが、語り部の話は聞くことができなかった。
 東京新宿にある東京都平和祈念展示資料館では体験者の講演を行っている。お薦めしたい。

 ソ連のスターリンが戦後に労働力とした戦争捕虜は300万人超。欧州人捕虜のうち病人らの解放命令で70万人が解放されたとされている。

 ドイツの人々の戦後も悲惨だったが、シベリア抑留においても、日本人ばかりでなくドイツを主とした欧州の人たちも犠牲となっていることを忘れてはならない。

 そのスターリンのソ連があれから幾星霜プーチンのロシアになって2024年2月24日、ウクライナに侵略し、ウクライナの子どもを拉致し、洗脳していると伝えられている。

 スターリンとプーチン、さらにプーチンのロシアに戦闘要員として兵士を送った北朝鮮の独裁者金一族の頭領。

 日本人の多くがソ連,ロシア、北朝鮮が嫌いな所以である