2024年10月28日

空母「瑞鶴」沈没80年の慰霊祭

 太平洋戦争末期の比レイテ沖海戦(1944年10月)で約1700人の乗組員の半数以上が戦死した航空母艦「瑞鶴」沈没80年目の慰霊祭が25日、奈良県橿原市の橿原神宮若桜友苑で営まれた。沈没時刻の午後2時14分に約100人の参列者が黙とうし、戦死者の冥福と平和を祈った。と10月26日の毎日新聞【皆木成実記者】が伝えている。

 慰霊碑「航空母艦瑞鶴之碑」に神職が冥福を祈る祭詞を奏上した後、みこが神楽「浦安の舞」を奉納した。昭和天皇が戦前、凪の海に例えて平和を祈願した和歌から作られた演目だ。続いて海戦生存者の肉声テープが披露された。比エンガノ岬沖で米軍機の魚雷や爆弾を受けて沈没し、海を漂流して駆逐艦に救助され、九死に一生を得た様子が生々しく語られた。

 慰霊碑は81年建立。若桜友苑は旧海軍甲種飛行予科練習生(予科練)の戦死者慰霊施設で、瑞鶴生存者が終戦間際、天理市の予科練訓練施設で教官をしていた縁から瑞鶴慰霊碑も建立された。


 1942年6月のミッドウェー海戦で敗れた日本は、1944年10月のレイテ沖海戦でも空母瑞鶴、戦艦武蔵などを撃沈されて敗北し、特攻作戦を始めることになってしまう。
 その後、サイパン、硫黄島で玉砕、3月の東京大空襲をはじめとする各都市への空襲、空爆、4月になると米軍は沖縄に上陸、激しい地上戦を繰り広げることになる。
 6月23日、沖縄守備隊司令官が自決、8月6日、8日とヒロシマ、ナガサキに原爆が投下され、8月15日を迎えることになる。
 瑞鶴が撃沈されたレイテ沖海戦は、日本の敗色濃厚となったことが決定的となった海戦だと言っても過言ではない。

 「 日本帝国海軍 連合艦隊 WORLD WAR 2:太平洋戦争 海戦の記録」によれば、瑞鶴の乗員1660人、戦没者843人だというから犠牲者の数は半数を超えている。生き残った人の体験記録は貴重である。

 その瑞鶴の慰霊碑が建立されているのが橿原神社で、慰霊祭が10月25日に行われていたとは知らなかった。
 というのも、その日、その時間は奈良にいたからで、事前にわかっていれば、橿原神社にお参りに行くことができたかもしれないからだ。

 偶然の出来事にしか過ぎないが、語り継ぐ戦争だから、そんなわけで書いておきたくなった。

 沈没後、海上を漂流しているところ駆逐艦に助けられた人の肉声テープが流されたということで、どんな状況でも助かる人と助からない人がいるということを知り、その分かれ目は何だろうと考えさせれた。

 運がよかった、悪かったの一言ではない何かがありそうだが、よくわからない。

 衆議院議員の選挙の開票結果が明らかになったが、自公連立政権が過半数を維持できなかったと言っても、維新、参政、保守党と、第二自民党よりもっと右寄りの人たちが当選しているし、立憲も自民と変わらないので、自公の数はトータルで変わらないのではないか。

 とにかく、戦争に巻き込まれないような政権であってほしい。