海外で終戦を迎え、旧満州(現中国東北部)やシベリアから約66万人が帰り着いた京都府舞鶴市に、仕事も頼る先もない引揚者の働く場となった授産施設があった。その詳細を記した冊子が今夏、同市内の住宅で見つかり、近く、舞鶴引揚記念館に寄贈される予定だ。と10月11日の読売(佐々木康之記者)が夕刊で伝えている。
現在のJR東舞鶴駅近くにあった引き揚げ者の寮「白鳥寮」の一角に設けられた「白鳥竹工授産場」。元海軍兵の田中俊司さん(2004年に87歳で死去)が生活困窮者ら向けに1947年3月に設立し、50年2月、資金繰り悪化で休業した。
冊子は「白鳥授産場白書」で、2024年7月、田中さんの自宅の書斎を遺族が整理中に見つけた。18枚のわら半紙に設立の経緯や従業員の様子などが綴られている。
同授産場について「「引き揚げ基地としての舞鶴に於ける最初の試み」と紹介。従業員は多い時期で40人ほどおり、白鳥寮の居住者が中心だった。
従業員の約3分の2が女性で「主として男は竹割や力仕事、女は編方や雑業であった。季節ごとに会食などで慰安したとし、「場内、気風は和気に満ち」と言及している。
記念館は、引き揚げなどに関する資料約1万6000点を収蔵し、うち570点が国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の「世界記録遺産」に登録された。
引き揚げ者の手記なども少なくないが、シベリア抑留中や帰国の経緯に関する記述が中心で、帰国後の生活に触れたものはほとんどない。
2013年10月に舞鶴引揚記念館を訪れている。各地の慰霊碑などを周ってきたが、舞鶴の街の雰囲気は独特なものがあった。
JR東舞鶴駅を下車、タクシーで15分くらいの海沿いにある施設であるが、タクシーの車窓から眺める街は、寂れていて、寒々とし、トビなのか鷹なのか不明ながら、大きな鳥の死骸を見て、ぎょっとしたことを覚えている。
語り継ぐ戦争であるから、日本が侵略した外地と呼ばれた海外からの引き揚げについては、大いに関心があり、舞鶴まで行ったのである。
それでも、引き揚げの港舞鶴に授産場があったことは全く知らなかった。
引き揚げの港では、様々なドラマがあった。
何回となく書いてきた博多や佐世保、仙崎そして舞鶴と敗戦後、ソ連兵などから性的暴行された女性が生憎妊娠し、中絶手術を余儀なくされたり、梅毒に罹患した女性の治療が行われたのである。
同じ引き揚げ者でも、満蒙開拓団の人たちのように、退路を断って海を渡ったので、引き揚げて来ても、頼るものがなかったから、再び、開拓村で働くことになった人も少なくない。
吉野せい『洟をたらした神』中央公論社)で福島のいわきだったか、開拓に勤しむ農婦の実情を知り、その大変さに驚愕した。
澄川嘉彦監督『タイマグラばあちゃん』では、岩手の早池峰山麓の開拓村でみそ、しょうゆからなんでも自給自足している農婦を映像で見て、これまた開拓村の厳しさを嫌というほど教えられた。
那須拓洋の地では、満蒙開拓団の人が引き揚げてきてから酪農などで働いたと耳にしたことがある。
引き揚げ者の厳しい暮らし向きは、住まいが必要で、ために引き揚げ者住宅があったことを耳にしたことがある。
東京多摩市と稲城市辺りに多摩弾薬庫があり、その周辺に引き揚げ者向け住宅があったということもまた何かで読んだような気がする。
引き揚げ者の戦後について、まず、引き揚げの港で、それから、それぞれの向かった行き先でどんな人生、ドラマがあったことが、記録することもまた、戦争の実情を知ることになるので重要である。