「追悼抄」というタイトルで亡くなった著名人の業績を称える記事が読売の夕刊にある。
その8月22日(白石一弘記者)伝えてくれたのは、水俣病「もやい直し」を唱えた元熊本県水俣市長吉井正澄さん(5月31日、92歳で死去)の追悼抄だった。
1994年5月1日、水俣市での水俣病犠牲者慰霊式で「犠牲になられた方々に対し、十分な対策を取り得なかったことを誠に申し訳なく思います」と公式に初めて謝罪し、「困難な事柄を克服し、今日の日を市民みんなが心を寄せ合う『もやい直し』の始まりの日といたします」と宣言したことで知られる吉井さん。
原因企業チッソの企業城下町だった水俣市。人間関係は分断され、補償の差などで被害者間にも溝が生まれた。船同士をつなぐ意味の「もやい」に由来し、地域の絆を結び直す「もやい直し」を吉井さんは
提唱した。
「立場の違いを超えた歩み寄りが『もやい直し』の精神」だそうな。
未認定患者に一時金などが支給された95年の政治決着で、村山政権と交渉を重ね,約1万人が救済された。
2004年の最高裁判決は患者の認定基準を行政より幅広く捉え、これを受けて認定申請者が急増した。
09年に第2の政治決着で被害者救済法が成立。10年には、未認定患者が起こした集団訴訟で救済対象を決める第三者委員会の座長に就任し、和解成立へ導いた。
2期8年の任期中は、公害の反省から環境モデル都市としての再生を掲げ、20種類を超えるごみの分別は今も続く。
「加害者と被害者の両方から信頼が厚かった」とは和解成立へ導いた時の原告側代理人を務めた園田昭人さん(69)だ。
水俣病が公式確認された1956(昭和31)年は、自分の連れ合いの生まれた年だから、忘れることはないが、実はもっと早くから水俣病は地元では、不知火の海の魚を食していた漁民の躰に異変が起きて、大きな問題となっていたのである。
しかし、現実には症状が出ても、原因が素人にはわからなかったから、患者たちの苦しみは理解されなかった。
原因がチッソが排出した工場廃液に含まれた有機水銀だとわかってからも、企業城下町だから、企業と関係のある市民が多かったことも原因究明の足枷になっていたように今なら言えることだが、当時は企業の側の方が圧倒的に力関係が上だった。
公害病には極めて高い関心を持つ立場であるが、部外者から見ると、国はいつものことながら患者寄りではなく、企業寄りで、未認定患者をなかなか認定しようとはしてこなかった。
つまり、認定患者、未認定患者、補償金の多寡などで、患者間でも分断が起きているように思われてならない。
わかりやすくいえば、毎年、5月1日の慰霊祭も市主催と乙女塚に集まる患者主催とに分かれて行っているくらいである。
吉井市長のことは恥ずかしながら、追悼抄で知ったくらいだが、水俣市が患者寄りかどうか、2017年6月に資料館を訪れた時の雰囲気では疑問だった。
胎児性患者の坂本しのぶさんは「水俣病は終わっていない」と未認定患者がまだまだいることを訴えている。
政治決着がついている割に、最終的な合意がなされていないところに水俣病の重さを教えられる。