「戦後79年 100歳語る」というタイトルで、過酷なシベリア抑留を生き抜いた岡山市の市川輝子さん(101)がソ連の捕虜となり経験したシベリア抑留の女性ならではの苦難について8月20日の読売が伝えている。
2018年9月4日、「シベリア抑留女性の行方を追う」というタイトルで、戦後73年、8月25日の読売が伝えたシベリアに抑留された女性のことを書いたとき、市川輝子さんも登場している。
市川さんは45年7月に女子挺身隊として召集され、満州北部佳木斯の陸軍病院の部隊に配属されたが、1945年8月9日未明、ソ連軍が満州に侵攻してきたため、160`南西にある方正に逃れた。
女性はソ連兵から性的暴行をされるため、男装し、自決用の青酸カリを持ち歩いた。
部隊はソ連兵に捕まり、市川さんの前にいた女性がソ連兵が乗った車に拉致されたときの助けを呼ぶ声が今も耳から離れないという。
後でわかったのは、拉致された女性はソ連兵に滅茶苦茶に性的暴行され、殺害されて捨てられていたこと。
10月になって極東のハバロフスクの収容所に入れられ、その後日本人捕虜の病院に移り、看護婦を補助した。
約2年の抑留を経て帰国を果たしたのは、47年6月で舞鶴に着いた。
先般、シベリア抑留のことを調べている多摩大学准教授小林昭菜さんがロシアで調べた結果、61万T237人の抑留者がいたことがわかった。
小林さんは女性の数について、紙面では明らかにしていないが、佳木斯の陸軍病院関係だけで150人ということが明らかになっているから、知られている300人という数より多いかもしれない。
150人の部隊から連れ去られたのが一人だけなんていうことがあるはずがないから、抑留される前に性的暴行されて殺害されてしまった人が多数いたのではないか。
とにかく、女性はソ連兵にとって戦利品で性的暴行の対象だから、抑留されるのも大変だったろう。
人間の生命力のことになるが、読売が「戦後79年、100歳語る」ということで、上、中、下3回体験を聞いているが、インパール作戦で生き残った菅原利男さん(100)、同期100人 9割が戦死した輸送機に通信兵として搭乗していた青木蔵男さん(101)そして、市川さんとその生命力には感心するばかりだ。
3回の連載で、シベリア抑留された女性市川さんのことを取り上げたのは、絵本『おこりじぞう』の絵を担当した四国五郎さんがシベリア抑留女性を描いた話のことを取り上げているから、その続きみたいな気持ちである。
その時の記事に市川さんの名前があり、あれから6年経って、お元気でいられたということで取り上げた。
女性だということで、兵士の性的な欲望の相手として狙われてしまうということで、2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻、侵略においてもソ連兵否ロシア兵はまたしても同じことをやっている。
いつか、天罰が下ることを祈りたい。