戦時下で障害者はどう生きたのか。視覚障害のある男性は、戦闘機の飛行音を聞き分ける訓練を重ねたが、空襲で友人を失ったことへのむなしさを今も抱える。まもなく迎える79回目の終戦の日。助け合える社会の実現を願う。と8月13日の読売(南暁子記者)が伝えている。
「戦闘機のグラマンやカーチスは『クーン』という割に軽い音。爆撃機のB24は『ゴーッ』と重々しい音だった」。京都市右京区の白畠 庸さん(88)は、日本上空を行き交った米機の飛行音を今も覚えている。
7歳の頃に自転車の事故で左目を失明した。右目の視力も低下し、8歳だった1944年に京都府立盲学校(京都市)に入学した。
授業では、陸軍が監修したレコード「敵機爆音集」を繰り返し聞かされた。機種別に、高度ごとの音が収録され、聞こえ方の違いが解説されている。「これを覚えておき、お国の役に立てたり、自分の身を守るために役立てたりしてください」。先生は言った。
日本盲教育史研究会の岸博実さん(75)は「戦局の悪化で兵士が不足する中、敵機の襲来をいち早く感知する『防空監視』要員として動員する狙いがあった可能性がある」と指摘する。
岸さんは「徴兵を免除される障害者は、『ごくつぶし』『役立たず』などと差別の対象にされがちだった。自分たちにできる形で国に奉仕しようと懸命だったのだろう」と話す。
「今は、障害者のための制度やサービスが整った一方で、よそよそしさを感じる。本当に助け合える社会になっているのだろうか」と問う白畠さん。戦争は最悪の経験だったと平和を願う。
軍人たちが起こした戦争ではあるが、市民は赤紙と呼ばれた召集令状で呼び出され、身体検査を受けさせられ、合格すると兵隊にさせられた。
身体強健であれば、即兵隊ということで、視覚障がい者であれば、当然兵士としては不適ということになるから、『ごくつぶし』『役立たず』などと差別の対象にされがちだったことは言を俟たない。
戦時中は健常者はともかく、病人や障がい者には生きにくい社会だったはずである。
戦争は女性や子ども、老人など弱者からみれば、酷い目にあうことがわかりきっている。
飢餓状態になれば、弱った兵隊は、殺されて食べられてしまうし、同じ弱者でも、女性は性暴力の被害者になってしまうことが多い。
障がい者でも、視力障がい者は目が不自由である分、聴力が優れていることから、防空監視要員とすることくらい、軍人なら考えるだろう。
健常者だって生きるのが大変な戦時中は、食料難ともなれば、「ごくつぶし」と兵士に不適な人間は差別されたことは容易に推察できる。
語り継ぐ戦争だから、いろいろな視点で書いてきたが戦争と障がい者ということでは書いた記憶がほとんどない。
旧日本軍は初年兵教育と称して、暴力で絶対服従させることが横行していた。内務班と呼ばれた場所での暴力など理不尽なことがまかりとおっていた。
表には出ていないが、自殺者も相当でていたようである。
先般、後期高齢者になるということで、運転免許の更新手続きをしたが、右目の視力が眼鏡でも矯正できないほど悪くて、さらに、加齢による視力の衰えで、視力検査がなかなか合格できず、困ったことがあった。
だから、視覚障がい者の気持ちはよく理解できる。
とにかく、日本が敗戦したことで、自由が取り戻せてよかった。これに尽きる。