8月6日、ヒロシマ79回目の原爆忌。語り継ぐ戦争に力を入れている読売社会部がこの日の夕刊で伝えてくれたのは「広島の誓い 強く 永く」「92歳初参列 「学友の無念伝える」「伯父の生きた証 後世に」「母の証言ビデオ製作」「こども代表 平和つくるのは私たち」「父の体験 語り継ぐ 秋田の2世」という見出し、そして「広島平和宣言全文」などである。
平和記念式典に初めて参列したのは山口県周南市の折出真喜男さん(92)。旧制修道中の2年生で、広島市中心部から約8キロ離れた坂町の自宅から学校に行く予定だったが朝寝坊したため。駅で汽車を待っているとき原爆が投下されたのを目撃している。
13年に家族で広島を訪れ、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で12歳で生涯を終えた伯父の顔写真を見て、心を揺さぶられた山梨県富士吉田市の僧侶遠山章信さんは母の証言ビデオを製作するそうな。
秋田県の遺族代表として初めて参列した照井美喜子さん(69)は被爆者の父喜代治さんを97歳で亡くした。
父親は1945年4月、陸軍船舶司令部(通称暁部隊)に召集され、爆心地から約2`の広島市内の兵舎で被爆した。
照井さんは実体験がないのに平和活動に携わることに迷いはあったが、3月1日に亡くなった父親の代わりに秋田県原爆被害者団体協議会の会員になることを決めた。
秋田で原爆被害を伝える人がいなくなっては困るとの思いからだ。
こども代表広島市立祇園小6年加藤昌さん(12)と市立八幡東小6年石丸優斗君が平和への誓いを読み上げた。
「色鮮やかな日常を奪い、ヒロシマを灰色の世界へと変えてしまった原爆」
「生きたくとも生きることができなかった人たちがいる。平和記念資料館を見学し、被爆者の言葉に触れてください。そして、家族や友達と平和の尊さや命の重みについて語り合いましょう」と呼びかけた。
79回目のヒロシマの原爆忌。
被爆体験者は無論の事、そうでない人もそれぞれの思いを抱いてこの日を迎えていることだろう。
ヒロシマの原爆忌を特集した読売の紙面で、心を揺さぶられたのは、「生きたくとも生きることができなかった人たちいる。
平和記念資料館を見学し、被爆者の言葉に触れ、家族や友達と平和の有難みを語り合おう」と訴える小学6年の二人のスピーチである。
恥ずかしいことだが、若い頃、ヒロシマ、ナガサキを訪れることをしてこなかった。
今、思えば悔やまれることで、意識が低かったとしか言いようがない。
仕事を50代半ばを前に、早期退職し、思うところあって、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を始めた。
まず、ナガサキを訪れ、ヒロシマも訪れた。
『夢千代日記』のヒロイン夢千代こと永井左千子と同じ胎内被爆者の知人がいたことから、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に行き、あの日の朝、家を出たまま二度と会うことがなかった彼の父親や、彼の名前を見つけたのは、二度目のヒロシマ行きで、語り継ぐ戦争だから、同行してもらった家族であった。
折出さんが平和記念公園を訪れ、まず手を合わせたという原爆死没者慰霊碑で、経を唱えるかわりに尺八を吹いたことも忘れられないことだが、何と言っても、原爆といえば、資料館で被爆者の実相を知ることだ。
まさに小学6年生の二人に教えられた「生きたくとも生きられなかった人たち」のことを考えさせてくれるのだ、
今を生きる人たちは生きたくとも生きられなかった人たちの声を拾い、代わりに発言していく使命がある。
口先だけではなく、平和な生活がどれほどかけがえのない有り難いことか、もっと真剣に考えていかなければならない。