2024年08月05日

被爆者 平和の礎に 語り継いだヒロシマ

 13歳の時に広島で被爆した後、生まれ育った沖縄の被爆者運動を牽引した比嘉幸子さん(2023年7月、91歳で死去)の名前が沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園にある「平和の礎」に今年、刻まれた。
 広島・長崎への原爆投下から間もなく79年。遺族は「刻銘によって、母の平和への思いが後世につながってほしい」と願う。と8月3日の読売(美根京子記者)が夕刊で伝えている。

 那覇市出身の比嘉さんは、戦況が悪化する中、1944年に父親の故郷である広島に疎開。翌年8月6日、発熱で動員作業を休み、自宅で被爆した。通っていた女学校では300人超の生徒が亡くなり、親友の母親からは「なんであなただけ生き残ったの」と責められた。終戦後の46年、米国占領下の沖縄に戻った。

 被爆から半世紀近くが過ぎた93年夏、犠牲者への負い目から足を運べていなかった女学校の慰霊祭に、娘の森久美子さんと初めて参列。慰霊碑を前に「みんなの分まで長生きして平和を伝えていくね」と決意を口にした。

 その後、沖縄県内の学校などで被爆体験を語り、2000年の九州・沖縄サミットに合わせて開かれた原爆展でも核廃絶を訴えた。03年からは県原爆被爆者協議会(県被爆協)の副理事長を務めた。


 ロシアのウクライナへの侵攻、侵略、パレスチナでハマスがイスラエルを攻撃し、人質をとられた復讐心にかられたユダヤ人の攻撃は見境ない明らかなジェノサイドである。

 平和って有り難いな、とつくづく考えさせられる出来事だ。

 酷暑、これほど暑い日々が続くのは滅多になかったことだが、7月の後半から地区の盆踊りが始まった。田舎町のこととはいえ、地域の町会が3か所で別々に盆踊りを開催するから、わが家の所属している町会の会計と婦人部の代表を頼まれている連れ合いは箏で忙しい上にさらに盆踊りだから、大変である。
 盆踊りといえば、日本全国では様々な踊りが伝えられているが、田舎町には、自分たち独自の盆踊りがなく、その昔は炭坑節なども踊っていた。
 わけわからないけれど、平和の有難みを感じる瞬間だから、批判などするつもりはないが、自分たちの踊りを例えば風の盆とかヨサコイみたいに作って、踊り継いでいけば、歴史に刻まれるのになどと考えたりしてしまう。
 その盆踊りが8月3日で一応終わり、語り継ぐ戦争でいえば、原爆を投下した米国に対する反米の意識が高まる8月6日と9日がやってくる。

 ヒロシマとナガサキで被爆とか沖縄戦を戦った沖縄の人が疎開先のヒロシマで被爆したという珍しい事例があることを知った。
 被爆者が平和の礎に名前を刻まれたということで、沖縄県民、その昔でいえば琉球王国の人々の懐の広さ、心の豊かさを再び印象付けられ、敬意を表したくなる出来事となった。

 初めて耳にした時は信じられなかったが、敵味方の区別なく、民族の差別もなく、沖縄戦を戦った人たちの名前を刻印しているというのだから、見上げたものである。

 身近なところでは、家族の友達の親族が平和の礎に名前を刻まれているということで、平和の礎に行き、手を合わせてきたということを知ったときは、直接的な知り合いではないが、ご縁があるものだと思ったりしたものである。

 沖縄県民が敵味方なく、死者を弔う気持ちを抱いているにもかかわらず、進駐軍の米軍は沖縄女性に性的暴行ばかりしているのは人種差別だからにちがいない。

 そのことを知った外務省は県民に知らせる必要はないと飼い主米国のぽちぶりで、怒り心頭である。
 外務省が米国のぽちであることに日本の右翼が怒らず、親米だというのだから、日本はダメなのだ。

 原爆投下の日こそ、反米、嫌米の日として、戦没死没した人たちに祈りを捧げたい。