2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻、侵略し、少し前に強奪したクリミア半島と同じようにウクライナの領土を占領したが、民主主義の危機だと今回はウクライナ支援に回った米国を筆頭にEU諸国などの支援でウクライナの人々は国土防衛戦争に立ち上がっている。
ロシアの侵攻侵略を何とか食い止めようとウクライナが頑張っているとき、パレスチナ自治区ガザのイスラム武装勢力ハマスがイスラエルを攻撃し、人質を取ったから、イスラエルが報復し、多くの犠牲者が出ている。
世界で2つの大きな戦争が行われているとき、フランスのパリでは平和の祭典パリ五輪が開催された。
日本から出場している選手は皆よく頑張ってくれている。
もう間もなくフィナーレを迎えようとしているが、陸上競技女子やり投げで北口榛花さんが金メダルを獲得したニュースをNHKのマイあさラジオが伝えてくれた。
個人的な見解であるが、五輪は陸上競技、水泳でメダルを獲得すると気持ちが盛り上がる。
走る、跳ぶ、投げる、泳ぐいずれも判定はなく、早いか遅いか、より遠く、より高くということだけで結果が出てしまうところに競技のわかりやすさがある。
誤解しないでもらいたい。他の種目のメダル獲得に注文をつけているわけではない。
例えば、陸上競技で金メダルを獲得したなんてすぐに思い浮かばないほど珍しいことだ。
そもそも予選をクリアすることだけでも大変なことで、決勝に進めるならそれだけで立派だとされるくらいメダルが遠い。
北口榛花さんのことは高校生の頃から知っていて、大学生になってインカレで注目していた。
大柄だが、笑顔がとても佳くて、応援したくなる選手だった。
野球でメジャーリーグで大活躍している大谷選手同様、まず、体で外国人選手に負けていないところが嬉しい。
やり投げの素人である自分からみても、助走のスピードを活かして投げた方が距離が出ると思うのだが、北口榛花さんは、助走のスピードなど気にせずに投げていたので、もし、助走が上手く活かせれば、距離が出ると思っていたら、ご本人がそんなことは承知の上のことだったようで、チェコのコーチの指導を仰ぎ、チェコ語を覚えて技術力を向上させようとしていたと耳にし、ますます応援したくなった。
北口榛花さんが陸上競技のやり投げで金メダルを獲得したことで、日本人だってやればできるということを証明してくれたことに勇気を頂戴した。
ウクライナに侵攻侵略した21世紀のヒトラー+スターリンこと悪魔殺人鬼のプーチンが戦争をやめるつもりがなく、イスラム武装勢力ハマスに人質を取られているイスラエルも戦争をやめるつもりがないようだから、戦時下で行われたパリ五輪としては、つくづく平和の有難みを教えてくれた。
パリ五輪が開催されているとき、米軍に原爆投下された被爆地ヒロシマ、ナガサキではあれから79年の原爆犠牲者の慰霊と平和の式典が開催された。
戦争さえなければ、戦没、死没する人がでることはなかった。
戦争と五輪開催、とにかく、二つの戦争が終結することを祈るばかりである。
争いは戦争でなく、スポーツで競うだけにしていかなければならない。
2024年08月11日
2024年08月10日
長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典
米軍による長崎への原爆投下から79年となった9日、長崎市の平和公園で平和祈念式典が開かれた。鈴木史朗市長は平和宣言で、被爆詩人の福田須磨子(1922〜74年)が被爆後の惨状や被爆者の苦しみを詠んだ詩を引用。ロシアのウクライナ侵攻と中東での紛争に触れ、核兵器が使用されることへの強い危機感を示した。午後には岸田文雄首相が歴代首相として初めて、国の援護区域外で原爆に遭い、被爆者と認められていない「被爆体験者」の団体代表と面会する。とメディアが伝えている。
8月10日の毎日によれば、式典には過去最多の101カ国・地域が参列。市はウクライナ侵攻を続けるロシアと、支援するベラルーシの招待を3年連続で見送った。イスラエルについても、パレスチナ自治区ガザ地区への攻撃を踏まえて「不測の事態が発生するリスクへの懸念がある」として招待しなかった。これを受け、米英などは駐日大使が参列しない意向を示した。
平和宣言で、鈴木市長は23歳の時に長崎で被爆した須磨子の詩「原爆を作る人々に」から「原爆を作る人々よ! しばし手を休め 眼をとじ給え」という言葉を引用。被爆者は戦後も家族らを失った悲しみや放射線の影響、差別や貧困に苦しめられてきたとし、「今こそ ためらうことなく 手の中にある一切を放棄するのだ」とした須磨子の訴えを紹介した。
米軍による原爆投下で犠牲となった人々の慰霊式を行うのは人として当然のことであるから、原爆投下から79年経っても慰霊式を行い、遠く離れた首都圏の田舎町に生まれ育った自分も原爆投下の時刻には起立して、1分間の黙とうを捧げられてよかった。
しかし、原爆投下に犠牲者への追悼と一緒に行う平和式典は岐路に立っているというのが語り継ぐ戦争という立場の自分の感想である。
被爆2世だという長崎の鈴木市長は、安全、警護を表向きの理由にイスラエルを招待しなかったことから、米英などが式典への参加を見合わせた。
慰霊式は当然のこととして、平和の式典のセレモニーより、各国の代表には、原爆資料館に入館してもらい、通訳をつけてガイドする方が効果があるはずだ。
普通の人間なら、原爆資料館で被爆者の実相を詳しく見てもらった方が非核に役立つことは確かである。
思春期から青年期にヒロシマ、ナガサキを訪れてこなかったけれど、感性が鈍ってしまってから訪れた資料館でも激しく心を揺さぶられた。
「米軍はなんてひどいことをしたんだ」と同時に、戦争を仕掛けたのは日本の軍人だという事実から、学業成績だけは優秀な軍人が、人間としてはおバカで、市民がこんな酷い目に合わされたことに怒り心頭だった。
正視に耐えないという言葉がある。
被爆直後の写真を目を見開いてしっかり見なければならないにもかかわらず、正視できない。
世界の要人に被爆者の実相を知ってもらい、非核を訴えた方が式典より効果的である。
セレモニーより、被爆者の写真をみてもらうことだ。
とにかく、一人でも多くの人に原爆資料館に入館してもらい、被爆者のことを知ってもらうことに尽きる。
ロシアとイスラエルの代表にもだ。
8月10日の毎日によれば、式典には過去最多の101カ国・地域が参列。市はウクライナ侵攻を続けるロシアと、支援するベラルーシの招待を3年連続で見送った。イスラエルについても、パレスチナ自治区ガザ地区への攻撃を踏まえて「不測の事態が発生するリスクへの懸念がある」として招待しなかった。これを受け、米英などは駐日大使が参列しない意向を示した。
平和宣言で、鈴木市長は23歳の時に長崎で被爆した須磨子の詩「原爆を作る人々に」から「原爆を作る人々よ! しばし手を休め 眼をとじ給え」という言葉を引用。被爆者は戦後も家族らを失った悲しみや放射線の影響、差別や貧困に苦しめられてきたとし、「今こそ ためらうことなく 手の中にある一切を放棄するのだ」とした須磨子の訴えを紹介した。
米軍による原爆投下で犠牲となった人々の慰霊式を行うのは人として当然のことであるから、原爆投下から79年経っても慰霊式を行い、遠く離れた首都圏の田舎町に生まれ育った自分も原爆投下の時刻には起立して、1分間の黙とうを捧げられてよかった。
しかし、原爆投下に犠牲者への追悼と一緒に行う平和式典は岐路に立っているというのが語り継ぐ戦争という立場の自分の感想である。
被爆2世だという長崎の鈴木市長は、安全、警護を表向きの理由にイスラエルを招待しなかったことから、米英などが式典への参加を見合わせた。
慰霊式は当然のこととして、平和の式典のセレモニーより、各国の代表には、原爆資料館に入館してもらい、通訳をつけてガイドする方が効果があるはずだ。
普通の人間なら、原爆資料館で被爆者の実相を詳しく見てもらった方が非核に役立つことは確かである。
思春期から青年期にヒロシマ、ナガサキを訪れてこなかったけれど、感性が鈍ってしまってから訪れた資料館でも激しく心を揺さぶられた。
「米軍はなんてひどいことをしたんだ」と同時に、戦争を仕掛けたのは日本の軍人だという事実から、学業成績だけは優秀な軍人が、人間としてはおバカで、市民がこんな酷い目に合わされたことに怒り心頭だった。
正視に耐えないという言葉がある。
被爆直後の写真を目を見開いてしっかり見なければならないにもかかわらず、正視できない。
世界の要人に被爆者の実相を知ってもらい、非核を訴えた方が式典より効果的である。
セレモニーより、被爆者の写真をみてもらうことだ。
とにかく、一人でも多くの人に原爆資料館に入館してもらい、被爆者のことを知ってもらうことに尽きる。
ロシアとイスラエルの代表にもだ。
2024年08月09日
核への怒り 伝える責務「福竜丸」取材の92歳
米国の水爆実験で船員らが 被曝した70 年前の第五福竜丸事件は原爆の被害を思い起こさせ、被爆者運動が本格化するきっかけになった。長崎は9日、79回目の追悼の日を迎える。記者として船員らを取材した被爆者吉田一人さん(92)が当時を振り返り、「核なき世界」の実現への思いを語った。と8月7日の読売(勢島康士朗記者)が夕刊で伝えている。
1952年4月までの米軍の占領下では、原爆に関する情報は統制され、差別を恐れる被爆者も人前で自身の体験を語ることはほとんどなかった。
通信社の記者だった54年春、第五福竜丸の男性船員が入院する東大病院で合同取材に臨んだ。「全部がピカッと光った」。頬から額にかけて赤くただれた男性は、記者たちに「死の灰」を浴びた時の様子を証言した。あの日の記憶が重なり合った吉田さんは、必死にペンを走らせた。
被爆したのは13歳の時。爆心地から3・5キロにある下宿先の前で同級生と立ち話をしていた。突然、目の前が白くなり、爆風で10メートルほど飛ばされた。大きなけがはなく、翌朝、実家に戻るため、長崎駅に向かった。やけどで全身に木の葉や新聞紙が付着したままの人や、腕の皮膚を垂らした人がさまよっていた。
事件を受け、杉並区の主婦らが原水爆禁止を求める署名活動を始めた。吉田さんは主婦らの活動拠点の公民館に何度も足を運び、署名が届く様子を取材した。集まった署名は3000万筆以上。「核兵器への怒りが加速度的に広がることに圧倒された」と思い返す。
口をつぐんでいた被爆者も声を上げ始め、55年に初の原水爆禁止世界大会が広島で開かれた。翌年には第2回大会が長崎で行われ、被爆者による全国組織「日本原水爆被害者団体協議会」(被団協)が結成された。
8月9日、今朝も7時半に畑に行き、草むしりをして9時過ぎに帰宅し、ナガサキに原爆が投下された時刻になって、犠牲者の供養を願って1分間の黙とうを捧げた。
ヒロシマの原爆投下における被爆者のときにも書いたことだが、ナガサキで被爆し、通信社の記者になっていたというくらいだから、92歳だという吉田さんには第五福竜丸がビキニ環礁で被爆した乗組員の取材に立ち会う運命というか使命があったのだろうと推察する。
自身がナガサキ原爆の被爆者なら、第五福竜丸の乗組員の気持ちや家族の気持ちがしっかり受け止められたはずだ。
被爆者の多くが何も語れず、米軍に殺されてしまったからには、生き残った被爆者には吉田さんのように90代まで生きられたら、殺されてしまった被爆者の声を拾い集めて、彼らに代わって核廃絶を訴えてもらいたい。
長崎市は本日の平和祈念の式典にパレスチナのガザ地区で滅茶苦茶に市民を殺戮しているイスラエルを招待しなかったら、イスラエルの後ろ盾となっている米英などが式典に参加しないと表明したそうな。
イスラエルを攻撃し、人質を取ったイスラム武装組織ハマスが先に攻撃を仕掛けたのだから、どっちもどっちであるが、戦争をやめようとしない両者には言葉がない。
原爆を投下した米国に対し、反米を公言してきた団塊の世代の一員としては、米国に復讐してやりたい気持ちがないではない。
しかし、その気持ちを抑え、平和な暮らしを選択しているので、平和の式典に出ないという米国が信用できない国であることを肝に命じるべきだ。
1952年4月までの米軍の占領下では、原爆に関する情報は統制され、差別を恐れる被爆者も人前で自身の体験を語ることはほとんどなかった。
通信社の記者だった54年春、第五福竜丸の男性船員が入院する東大病院で合同取材に臨んだ。「全部がピカッと光った」。頬から額にかけて赤くただれた男性は、記者たちに「死の灰」を浴びた時の様子を証言した。あの日の記憶が重なり合った吉田さんは、必死にペンを走らせた。
被爆したのは13歳の時。爆心地から3・5キロにある下宿先の前で同級生と立ち話をしていた。突然、目の前が白くなり、爆風で10メートルほど飛ばされた。大きなけがはなく、翌朝、実家に戻るため、長崎駅に向かった。やけどで全身に木の葉や新聞紙が付着したままの人や、腕の皮膚を垂らした人がさまよっていた。
事件を受け、杉並区の主婦らが原水爆禁止を求める署名活動を始めた。吉田さんは主婦らの活動拠点の公民館に何度も足を運び、署名が届く様子を取材した。集まった署名は3000万筆以上。「核兵器への怒りが加速度的に広がることに圧倒された」と思い返す。
口をつぐんでいた被爆者も声を上げ始め、55年に初の原水爆禁止世界大会が広島で開かれた。翌年には第2回大会が長崎で行われ、被爆者による全国組織「日本原水爆被害者団体協議会」(被団協)が結成された。
8月9日、今朝も7時半に畑に行き、草むしりをして9時過ぎに帰宅し、ナガサキに原爆が投下された時刻になって、犠牲者の供養を願って1分間の黙とうを捧げた。
ヒロシマの原爆投下における被爆者のときにも書いたことだが、ナガサキで被爆し、通信社の記者になっていたというくらいだから、92歳だという吉田さんには第五福竜丸がビキニ環礁で被爆した乗組員の取材に立ち会う運命というか使命があったのだろうと推察する。
自身がナガサキ原爆の被爆者なら、第五福竜丸の乗組員の気持ちや家族の気持ちがしっかり受け止められたはずだ。
被爆者の多くが何も語れず、米軍に殺されてしまったからには、生き残った被爆者には吉田さんのように90代まで生きられたら、殺されてしまった被爆者の声を拾い集めて、彼らに代わって核廃絶を訴えてもらいたい。
長崎市は本日の平和祈念の式典にパレスチナのガザ地区で滅茶苦茶に市民を殺戮しているイスラエルを招待しなかったら、イスラエルの後ろ盾となっている米英などが式典に参加しないと表明したそうな。
イスラエルを攻撃し、人質を取ったイスラム武装組織ハマスが先に攻撃を仕掛けたのだから、どっちもどっちであるが、戦争をやめようとしない両者には言葉がない。
原爆を投下した米国に対し、反米を公言してきた団塊の世代の一員としては、米国に復讐してやりたい気持ちがないではない。
しかし、その気持ちを抑え、平和な暮らしを選択しているので、平和の式典に出ないという米国が信用できない国であることを肝に命じるべきだ。
2024年08月08日
「平和つくるのは私たち」79回目の原爆忌こども代表
8月6日、ヒロシマ79回目の原爆忌。語り継ぐ戦争に力を入れている読売社会部がこの日の夕刊で伝えてくれたのは「広島の誓い 強く 永く」「92歳初参列 「学友の無念伝える」「伯父の生きた証 後世に」「母の証言ビデオ製作」「こども代表 平和つくるのは私たち」「父の体験 語り継ぐ 秋田の2世」という見出し、そして「広島平和宣言全文」などである。
平和記念式典に初めて参列したのは山口県周南市の折出真喜男さん(92)。旧制修道中の2年生で、広島市中心部から約8キロ離れた坂町の自宅から学校に行く予定だったが朝寝坊したため。駅で汽車を待っているとき原爆が投下されたのを目撃している。
13年に家族で広島を訪れ、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で12歳で生涯を終えた伯父の顔写真を見て、心を揺さぶられた山梨県富士吉田市の僧侶遠山章信さんは母の証言ビデオを製作するそうな。
秋田県の遺族代表として初めて参列した照井美喜子さん(69)は被爆者の父喜代治さんを97歳で亡くした。
父親は1945年4月、陸軍船舶司令部(通称暁部隊)に召集され、爆心地から約2`の広島市内の兵舎で被爆した。
照井さんは実体験がないのに平和活動に携わることに迷いはあったが、3月1日に亡くなった父親の代わりに秋田県原爆被害者団体協議会の会員になることを決めた。
秋田で原爆被害を伝える人がいなくなっては困るとの思いからだ。
こども代表広島市立祇園小6年加藤昌さん(12)と市立八幡東小6年石丸優斗君が平和への誓いを読み上げた。
「色鮮やかな日常を奪い、ヒロシマを灰色の世界へと変えてしまった原爆」
「生きたくとも生きることができなかった人たちがいる。平和記念資料館を見学し、被爆者の言葉に触れてください。そして、家族や友達と平和の尊さや命の重みについて語り合いましょう」と呼びかけた。
79回目のヒロシマの原爆忌。
被爆体験者は無論の事、そうでない人もそれぞれの思いを抱いてこの日を迎えていることだろう。
ヒロシマの原爆忌を特集した読売の紙面で、心を揺さぶられたのは、「生きたくとも生きることができなかった人たちいる。
平和記念資料館を見学し、被爆者の言葉に触れ、家族や友達と平和の有難みを語り合おう」と訴える小学6年の二人のスピーチである。
恥ずかしいことだが、若い頃、ヒロシマ、ナガサキを訪れることをしてこなかった。
今、思えば悔やまれることで、意識が低かったとしか言いようがない。
仕事を50代半ばを前に、早期退職し、思うところあって、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を始めた。
まず、ナガサキを訪れ、ヒロシマも訪れた。
『夢千代日記』のヒロイン夢千代こと永井左千子と同じ胎内被爆者の知人がいたことから、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に行き、あの日の朝、家を出たまま二度と会うことがなかった彼の父親や、彼の名前を見つけたのは、二度目のヒロシマ行きで、語り継ぐ戦争だから、同行してもらった家族であった。
折出さんが平和記念公園を訪れ、まず手を合わせたという原爆死没者慰霊碑で、経を唱えるかわりに尺八を吹いたことも忘れられないことだが、何と言っても、原爆といえば、資料館で被爆者の実相を知ることだ。
まさに小学6年生の二人に教えられた「生きたくとも生きられなかった人たち」のことを考えさせてくれるのだ、
今を生きる人たちは生きたくとも生きられなかった人たちの声を拾い、代わりに発言していく使命がある。
口先だけではなく、平和な生活がどれほどかけがえのない有り難いことか、もっと真剣に考えていかなければならない。
平和記念式典に初めて参列したのは山口県周南市の折出真喜男さん(92)。旧制修道中の2年生で、広島市中心部から約8キロ離れた坂町の自宅から学校に行く予定だったが朝寝坊したため。駅で汽車を待っているとき原爆が投下されたのを目撃している。
13年に家族で広島を訪れ、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で12歳で生涯を終えた伯父の顔写真を見て、心を揺さぶられた山梨県富士吉田市の僧侶遠山章信さんは母の証言ビデオを製作するそうな。
秋田県の遺族代表として初めて参列した照井美喜子さん(69)は被爆者の父喜代治さんを97歳で亡くした。
父親は1945年4月、陸軍船舶司令部(通称暁部隊)に召集され、爆心地から約2`の広島市内の兵舎で被爆した。
照井さんは実体験がないのに平和活動に携わることに迷いはあったが、3月1日に亡くなった父親の代わりに秋田県原爆被害者団体協議会の会員になることを決めた。
秋田で原爆被害を伝える人がいなくなっては困るとの思いからだ。
こども代表広島市立祇園小6年加藤昌さん(12)と市立八幡東小6年石丸優斗君が平和への誓いを読み上げた。
「色鮮やかな日常を奪い、ヒロシマを灰色の世界へと変えてしまった原爆」
「生きたくとも生きることができなかった人たちがいる。平和記念資料館を見学し、被爆者の言葉に触れてください。そして、家族や友達と平和の尊さや命の重みについて語り合いましょう」と呼びかけた。
79回目のヒロシマの原爆忌。
被爆体験者は無論の事、そうでない人もそれぞれの思いを抱いてこの日を迎えていることだろう。
ヒロシマの原爆忌を特集した読売の紙面で、心を揺さぶられたのは、「生きたくとも生きることができなかった人たちいる。
平和記念資料館を見学し、被爆者の言葉に触れ、家族や友達と平和の有難みを語り合おう」と訴える小学6年の二人のスピーチである。
恥ずかしいことだが、若い頃、ヒロシマ、ナガサキを訪れることをしてこなかった。
今、思えば悔やまれることで、意識が低かったとしか言いようがない。
仕事を50代半ばを前に、早期退職し、思うところあって、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を始めた。
まず、ナガサキを訪れ、ヒロシマも訪れた。
『夢千代日記』のヒロイン夢千代こと永井左千子と同じ胎内被爆者の知人がいたことから、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に行き、あの日の朝、家を出たまま二度と会うことがなかった彼の父親や、彼の名前を見つけたのは、二度目のヒロシマ行きで、語り継ぐ戦争だから、同行してもらった家族であった。
折出さんが平和記念公園を訪れ、まず手を合わせたという原爆死没者慰霊碑で、経を唱えるかわりに尺八を吹いたことも忘れられないことだが、何と言っても、原爆といえば、資料館で被爆者の実相を知ることだ。
まさに小学6年生の二人に教えられた「生きたくとも生きられなかった人たち」のことを考えさせてくれるのだ、
今を生きる人たちは生きたくとも生きられなかった人たちの声を拾い、代わりに発言していく使命がある。
口先だけではなく、平和な生活がどれほどかけがえのない有り難いことか、もっと真剣に考えていかなければならない。
2024年08月07日
豊川海軍工廠空襲で死者が2500人以上
NHKマイあさラジオ、「今日は何の日」で、1945年8月7日、愛知県豊川市にあった海軍工廠が空襲されてから79年だと教えてくれた。
B29爆撃機124機P51戦闘機45機で、3,256発の500ポンド爆弾(250キロ級爆弾)が集中投下された。
死者2500人以上、負傷者約1万人。(豊川市史)
8月6日にヒロシマに原爆を投下した米軍は、8月9日にナガサキにも原爆を投下する間に豊川の海軍工廠を空襲、空爆した。
軍需施設だから、当然攻撃目標とされていたことはわかっていたであろうが、軍需施設に勤労動員されていた中学生、女学生、国民学校生多数が殺された。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚では愛知県は豊橋駅からタクシーで三ヶ根山に行ったことがあるが、その後、名古屋で新幹線に乗る前、中村区で遊女や女郎の骨を焼いた灰などで作られた観音様にお参りしたくらいで、豊川の海軍工廠の空襲のことは知らなかった。
豊川といえば、豊川稲荷が有名だから、行ったことはなくとも知っていた。
さらに、高校駅伝で豊川高校が活躍していたことがあり、そこの監督が箱根駅伝の日体大の監督に招へいされたが、体罰事件で首になったことは承知している。
戦争だから、海軍工廠のような軍需施設は狙われて当然のことだが、軍需工場は勤労動員された学生がいたから、前途ある若者が多数命を落とすことになってしまった。
戦争を始めたのは軍人であるが、そのとばっちりというか、殺されるのは市民だということをもう一度しっかり考えたい。
軍人は、自分たちだけ武装しているから、市民は軍人には逆らえない。
戦争が始まってしまえば、戦争に反対することなどできないし、軍人は手柄を上げて、出世することは考えるが、市民が死ぬことなど全く考えもしない。
ヒロシマに新型爆弾投下ということで、市民は新型爆弾が原爆であることなどわからなかったし、被爆者の様子などもわからなかったが、軍人たちは原爆の威力を知らないはずがなかったはずだ。
ヒロシマに原爆が投下されても、まだ降伏することにならず、ナガサキにも原爆が投下され、ようやく無条件降伏へと天皇が決断することになる。
あの戦争が終わって、軍人たちの幹部たちがおめおめと生き恥を晒したが、所詮人間なんて、自分のことしか考えないやつが出世し、『人間の條件』で描かれた梶のような良心を抱く人間は生き残れない。
靖国神社が大好きだった安倍元首相は反日反社の旧統一教会とズブズブの関係であったことで墓穴を掘った。
裏金自民党議員は犯罪者でありながら、弱い者いじめが得意な検察は裏金議員のような権力側の人間の犯罪は見て見ぬふりで、彼らを捕まえようとしない。
その彼らが親米で米国の戦争に協力しようとしているのだから、市民は選挙でそのことをしっかり考えて投票しなければならない。
米軍の投下した原爆、空襲空爆で殺された人々は発言することができない。
だから、生きている我々が、代わりに彼らの分まで発言する必要がある。
戦争に巻き込まれないように真剣に考えないと、またもと来た道にということになってしまう。
B29爆撃機124機P51戦闘機45機で、3,256発の500ポンド爆弾(250キロ級爆弾)が集中投下された。
死者2500人以上、負傷者約1万人。(豊川市史)
8月6日にヒロシマに原爆を投下した米軍は、8月9日にナガサキにも原爆を投下する間に豊川の海軍工廠を空襲、空爆した。
軍需施設だから、当然攻撃目標とされていたことはわかっていたであろうが、軍需施設に勤労動員されていた中学生、女学生、国民学校生多数が殺された。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚では愛知県は豊橋駅からタクシーで三ヶ根山に行ったことがあるが、その後、名古屋で新幹線に乗る前、中村区で遊女や女郎の骨を焼いた灰などで作られた観音様にお参りしたくらいで、豊川の海軍工廠の空襲のことは知らなかった。
豊川といえば、豊川稲荷が有名だから、行ったことはなくとも知っていた。
さらに、高校駅伝で豊川高校が活躍していたことがあり、そこの監督が箱根駅伝の日体大の監督に招へいされたが、体罰事件で首になったことは承知している。
戦争だから、海軍工廠のような軍需施設は狙われて当然のことだが、軍需工場は勤労動員された学生がいたから、前途ある若者が多数命を落とすことになってしまった。
戦争を始めたのは軍人であるが、そのとばっちりというか、殺されるのは市民だということをもう一度しっかり考えたい。
軍人は、自分たちだけ武装しているから、市民は軍人には逆らえない。
戦争が始まってしまえば、戦争に反対することなどできないし、軍人は手柄を上げて、出世することは考えるが、市民が死ぬことなど全く考えもしない。
ヒロシマに新型爆弾投下ということで、市民は新型爆弾が原爆であることなどわからなかったし、被爆者の様子などもわからなかったが、軍人たちは原爆の威力を知らないはずがなかったはずだ。
ヒロシマに原爆が投下されても、まだ降伏することにならず、ナガサキにも原爆が投下され、ようやく無条件降伏へと天皇が決断することになる。
あの戦争が終わって、軍人たちの幹部たちがおめおめと生き恥を晒したが、所詮人間なんて、自分のことしか考えないやつが出世し、『人間の條件』で描かれた梶のような良心を抱く人間は生き残れない。
靖国神社が大好きだった安倍元首相は反日反社の旧統一教会とズブズブの関係であったことで墓穴を掘った。
裏金自民党議員は犯罪者でありながら、弱い者いじめが得意な検察は裏金議員のような権力側の人間の犯罪は見て見ぬふりで、彼らを捕まえようとしない。
その彼らが親米で米国の戦争に協力しようとしているのだから、市民は選挙でそのことをしっかり考えて投票しなければならない。
米軍の投下した原爆、空襲空爆で殺された人々は発言することができない。
だから、生きている我々が、代わりに彼らの分まで発言する必要がある。
戦争に巻き込まれないように真剣に考えないと、またもと来た道にということになってしまう。
2024年08月06日
核廃絶訴え15か国で ヒロシマで被爆 森下さん
語り継ぐ戦争に力を入れている読売の社会部が戦後79年の2024年も戦争の実相を伝えようと努力している。
8月4日の紙面では、ヒロシマで被爆した森下弘さん(93)が核兵器の残酷さを世界に訴えてきたが、被爆証言などで訪れたのは15か国になる。力尽きるまで核廃絶の声を上げ続けるつもりだと伝えている。
映画になったが、生憎観なかった『原爆の父』と言われた物理学者のロバート・オッペンハイマー。米国で原子力の平和利用や核不拡散を訴える活動をする彼の孫チャールズ・オッペンハイマーさん(49)と2024年6月、広島市内で森下さんは対面した。
森下さんから被爆体験を通訳を介して聞いたチャールズさんは「被害を受けた人は謝罪を受ける権利があると思う」と語った。
64年4月、米国やソ連など8か国150都市を被爆者らが巡る「広島。長崎世界平和巡礼」の折、原爆投下を命じた米国のトルーマン元大統領と面会するも「原爆は戦争終結に必要だった」と持論を述べ、謝罪は全くなかったことに怒りや失望がわいてきた。
そのことが原動力となって、帰国後は被爆の実相を伝えることに力を注いだ。
2012年8月、トルーマンの孫クリフトン・トルーマン・ダニエルさん(67)と面会するも、謝罪を求めたかった森下さんにダニエルさんは無言であったが、後に、米国で被爆者の体験を伝える活動をしていることを知り、気持ちは通じたようだという。
あれから79年の朝、畑で草むしりを中断し、ヒロシマの原爆投下の時刻、犠牲者の供養のために黙とうを捧げた。
運、不運、誰の身の上にも起こることだが、被爆を生き抜いた森下さんが93歳でお元気の様子。
幼馴染の訃報が届き、コロナにとうとう感染したのか、ずっと体調不良だったが、まだ、咳はしているもののようやくふだんの躰に戻りつつある後期高齢者の一人である自分と較べ、90過ぎまで生きられた森下さん。神が与えた使命が被爆を語り継ぐことではないのか。
米国のトルーマン元大統領を筆頭に、戦争を終わらせるために原爆が役立ったようなことを公言する連中が米国にはたくさんいる。
だからこそ、被爆者の体験を語り継いでいくことが大事になってくるのだ。
日本人だって、ヒロシマ、ナガサキに行くことがなければだんだん忘れられてしまう。
日本が米国と戦争したことだって若い人はしっかり受け止めていないのではないか。
8月6日と9日は、鬼畜と当時叫んだ米国への恨みを忘れてはならない日である。
自分のような反米主義者がいる限り、米軍が日本に駐留し、日本が米国に逆らわないように監視を続けるだろう。
原爆を落とされて、謝罪もしない米国に対し、反米、嫌米と声を大にして叫ぶ。
米国は信用できない。
8月4日の紙面では、ヒロシマで被爆した森下弘さん(93)が核兵器の残酷さを世界に訴えてきたが、被爆証言などで訪れたのは15か国になる。力尽きるまで核廃絶の声を上げ続けるつもりだと伝えている。
映画になったが、生憎観なかった『原爆の父』と言われた物理学者のロバート・オッペンハイマー。米国で原子力の平和利用や核不拡散を訴える活動をする彼の孫チャールズ・オッペンハイマーさん(49)と2024年6月、広島市内で森下さんは対面した。
森下さんから被爆体験を通訳を介して聞いたチャールズさんは「被害を受けた人は謝罪を受ける権利があると思う」と語った。
64年4月、米国やソ連など8か国150都市を被爆者らが巡る「広島。長崎世界平和巡礼」の折、原爆投下を命じた米国のトルーマン元大統領と面会するも「原爆は戦争終結に必要だった」と持論を述べ、謝罪は全くなかったことに怒りや失望がわいてきた。
そのことが原動力となって、帰国後は被爆の実相を伝えることに力を注いだ。
2012年8月、トルーマンの孫クリフトン・トルーマン・ダニエルさん(67)と面会するも、謝罪を求めたかった森下さんにダニエルさんは無言であったが、後に、米国で被爆者の体験を伝える活動をしていることを知り、気持ちは通じたようだという。
あれから79年の朝、畑で草むしりを中断し、ヒロシマの原爆投下の時刻、犠牲者の供養のために黙とうを捧げた。
運、不運、誰の身の上にも起こることだが、被爆を生き抜いた森下さんが93歳でお元気の様子。
幼馴染の訃報が届き、コロナにとうとう感染したのか、ずっと体調不良だったが、まだ、咳はしているもののようやくふだんの躰に戻りつつある後期高齢者の一人である自分と較べ、90過ぎまで生きられた森下さん。神が与えた使命が被爆を語り継ぐことではないのか。
米国のトルーマン元大統領を筆頭に、戦争を終わらせるために原爆が役立ったようなことを公言する連中が米国にはたくさんいる。
だからこそ、被爆者の体験を語り継いでいくことが大事になってくるのだ。
日本人だって、ヒロシマ、ナガサキに行くことがなければだんだん忘れられてしまう。
日本が米国と戦争したことだって若い人はしっかり受け止めていないのではないか。
8月6日と9日は、鬼畜と当時叫んだ米国への恨みを忘れてはならない日である。
自分のような反米主義者がいる限り、米軍が日本に駐留し、日本が米国に逆らわないように監視を続けるだろう。
原爆を落とされて、謝罪もしない米国に対し、反米、嫌米と声を大にして叫ぶ。
米国は信用できない。
2024年08月05日
被爆者 平和の礎に 語り継いだヒロシマ
13歳の時に広島で被爆した後、生まれ育った沖縄の被爆者運動を牽引した比嘉幸子さん(2023年7月、91歳で死去)の名前が沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園にある「平和の礎」に今年、刻まれた。
広島・長崎への原爆投下から間もなく79年。遺族は「刻銘によって、母の平和への思いが後世につながってほしい」と願う。と8月3日の読売(美根京子記者)が夕刊で伝えている。
那覇市出身の比嘉さんは、戦況が悪化する中、1944年に父親の故郷である広島に疎開。翌年8月6日、発熱で動員作業を休み、自宅で被爆した。通っていた女学校では300人超の生徒が亡くなり、親友の母親からは「なんであなただけ生き残ったの」と責められた。終戦後の46年、米国占領下の沖縄に戻った。
被爆から半世紀近くが過ぎた93年夏、犠牲者への負い目から足を運べていなかった女学校の慰霊祭に、娘の森久美子さんと初めて参列。慰霊碑を前に「みんなの分まで長生きして平和を伝えていくね」と決意を口にした。
その後、沖縄県内の学校などで被爆体験を語り、2000年の九州・沖縄サミットに合わせて開かれた原爆展でも核廃絶を訴えた。03年からは県原爆被爆者協議会(県被爆協)の副理事長を務めた。
ロシアのウクライナへの侵攻、侵略、パレスチナでハマスがイスラエルを攻撃し、人質をとられた復讐心にかられたユダヤ人の攻撃は見境ない明らかなジェノサイドである。
平和って有り難いな、とつくづく考えさせられる出来事だ。
酷暑、これほど暑い日々が続くのは滅多になかったことだが、7月の後半から地区の盆踊りが始まった。田舎町のこととはいえ、地域の町会が3か所で別々に盆踊りを開催するから、わが家の所属している町会の会計と婦人部の代表を頼まれている連れ合いは箏で忙しい上にさらに盆踊りだから、大変である。
盆踊りといえば、日本全国では様々な踊りが伝えられているが、田舎町には、自分たち独自の盆踊りがなく、その昔は炭坑節なども踊っていた。
わけわからないけれど、平和の有難みを感じる瞬間だから、批判などするつもりはないが、自分たちの踊りを例えば風の盆とかヨサコイみたいに作って、踊り継いでいけば、歴史に刻まれるのになどと考えたりしてしまう。
その盆踊りが8月3日で一応終わり、語り継ぐ戦争でいえば、原爆を投下した米国に対する反米の意識が高まる8月6日と9日がやってくる。
ヒロシマとナガサキで被爆とか沖縄戦を戦った沖縄の人が疎開先のヒロシマで被爆したという珍しい事例があることを知った。
被爆者が平和の礎に名前を刻まれたということで、沖縄県民、その昔でいえば琉球王国の人々の懐の広さ、心の豊かさを再び印象付けられ、敬意を表したくなる出来事となった。
初めて耳にした時は信じられなかったが、敵味方の区別なく、民族の差別もなく、沖縄戦を戦った人たちの名前を刻印しているというのだから、見上げたものである。
身近なところでは、家族の友達の親族が平和の礎に名前を刻まれているということで、平和の礎に行き、手を合わせてきたということを知ったときは、直接的な知り合いではないが、ご縁があるものだと思ったりしたものである。
沖縄県民が敵味方なく、死者を弔う気持ちを抱いているにもかかわらず、進駐軍の米軍は沖縄女性に性的暴行ばかりしているのは人種差別だからにちがいない。
そのことを知った外務省は県民に知らせる必要はないと飼い主米国のぽちぶりで、怒り心頭である。
外務省が米国のぽちであることに日本の右翼が怒らず、親米だというのだから、日本はダメなのだ。
原爆投下の日こそ、反米、嫌米の日として、戦没死没した人たちに祈りを捧げたい。
広島・長崎への原爆投下から間もなく79年。遺族は「刻銘によって、母の平和への思いが後世につながってほしい」と願う。と8月3日の読売(美根京子記者)が夕刊で伝えている。
那覇市出身の比嘉さんは、戦況が悪化する中、1944年に父親の故郷である広島に疎開。翌年8月6日、発熱で動員作業を休み、自宅で被爆した。通っていた女学校では300人超の生徒が亡くなり、親友の母親からは「なんであなただけ生き残ったの」と責められた。終戦後の46年、米国占領下の沖縄に戻った。
被爆から半世紀近くが過ぎた93年夏、犠牲者への負い目から足を運べていなかった女学校の慰霊祭に、娘の森久美子さんと初めて参列。慰霊碑を前に「みんなの分まで長生きして平和を伝えていくね」と決意を口にした。
その後、沖縄県内の学校などで被爆体験を語り、2000年の九州・沖縄サミットに合わせて開かれた原爆展でも核廃絶を訴えた。03年からは県原爆被爆者協議会(県被爆協)の副理事長を務めた。
ロシアのウクライナへの侵攻、侵略、パレスチナでハマスがイスラエルを攻撃し、人質をとられた復讐心にかられたユダヤ人の攻撃は見境ない明らかなジェノサイドである。
平和って有り難いな、とつくづく考えさせられる出来事だ。
酷暑、これほど暑い日々が続くのは滅多になかったことだが、7月の後半から地区の盆踊りが始まった。田舎町のこととはいえ、地域の町会が3か所で別々に盆踊りを開催するから、わが家の所属している町会の会計と婦人部の代表を頼まれている連れ合いは箏で忙しい上にさらに盆踊りだから、大変である。
盆踊りといえば、日本全国では様々な踊りが伝えられているが、田舎町には、自分たち独自の盆踊りがなく、その昔は炭坑節なども踊っていた。
わけわからないけれど、平和の有難みを感じる瞬間だから、批判などするつもりはないが、自分たちの踊りを例えば風の盆とかヨサコイみたいに作って、踊り継いでいけば、歴史に刻まれるのになどと考えたりしてしまう。
その盆踊りが8月3日で一応終わり、語り継ぐ戦争でいえば、原爆を投下した米国に対する反米の意識が高まる8月6日と9日がやってくる。
ヒロシマとナガサキで被爆とか沖縄戦を戦った沖縄の人が疎開先のヒロシマで被爆したという珍しい事例があることを知った。
被爆者が平和の礎に名前を刻まれたということで、沖縄県民、その昔でいえば琉球王国の人々の懐の広さ、心の豊かさを再び印象付けられ、敬意を表したくなる出来事となった。
初めて耳にした時は信じられなかったが、敵味方の区別なく、民族の差別もなく、沖縄戦を戦った人たちの名前を刻印しているというのだから、見上げたものである。
身近なところでは、家族の友達の親族が平和の礎に名前を刻まれているということで、平和の礎に行き、手を合わせてきたということを知ったときは、直接的な知り合いではないが、ご縁があるものだと思ったりしたものである。
沖縄県民が敵味方なく、死者を弔う気持ちを抱いているにもかかわらず、進駐軍の米軍は沖縄女性に性的暴行ばかりしているのは人種差別だからにちがいない。
そのことを知った外務省は県民に知らせる必要はないと飼い主米国のぽちぶりで、怒り心頭である。
外務省が米国のぽちであることに日本の右翼が怒らず、親米だというのだから、日本はダメなのだ。
原爆投下の日こそ、反米、嫌米の日として、戦没死没した人たちに祈りを捧げたい。
2024年08月04日
公設秘書の給与を国から詐取した弁護士の議員
広瀬めぐみ参院議員(58)=自民党離党=の秘書給与を巡る詐欺事件で、広瀬氏の公設第1秘書が東京地検特捜部の任意の調べに対し、第2秘書の給与を「広瀬氏の指示を受けて上納していた」などとする趣旨の供述をしていることが2日、関係者への取材で分かった。特捜部は、秘書給与の詐取を広瀬氏が主導していた可能性があるとみているもようだ。とメディアが伝えている。
産経などによれば、関係者によると、広瀬氏は第1秘書の妻を第2秘書として国に申請。令和4年末〜5年夏、第2秘書の口座に月数十万円が国から支給された。その大半は、第1秘書が現金で広瀬氏に渡していたといい、賞与を含め、総額は約400万円に上るとみられる。
広瀬議員は弁護士資格を持っているそうだが、法令遵守、倫理感などは全く持ち合わせていないようだ。
赤いベンツで外国人男性とホテルで不倫していることを文春砲だったかがさく裂したことがあった。
家庭がありながら、赤いベンツで不倫ということで、その裏側では公設第2秘書の給与を国から詐取していたというのだから、弁護士資格はともかく、議員の資質に欠けるとしか思えない。
岩手県選出だということで、東日本大震災のときは、少なからず被災地の皆さんには応援してきた証拠に福島の酒を購入したりしてきた。
こんな議員を選出するなら、岩手に何かあっても応援しようという気持ちにならない。
ただし、家宅捜索をした東京地検特捜部のやり方については、納得がいかない。
自民党安倍派を主とした裏金議員については政治資金規正法に反するにもかかわらず、お咎めなしということで、日本国憲法の法の下の平等ということが守られていない。
謂わば、検察は弱い者いじめが得意で、国家権力側にメスを入れることなんてはなからやる気がないことが証明された。
秘書給与を詐取し、赤いベンツで不倫している自民党女議員なんて味方してやることは全く考えられないが、自民党裏金議員と一緒に早く捕まえるべきではないのか。
許せない犯罪である。
産経などによれば、関係者によると、広瀬氏は第1秘書の妻を第2秘書として国に申請。令和4年末〜5年夏、第2秘書の口座に月数十万円が国から支給された。その大半は、第1秘書が現金で広瀬氏に渡していたといい、賞与を含め、総額は約400万円に上るとみられる。
広瀬議員は弁護士資格を持っているそうだが、法令遵守、倫理感などは全く持ち合わせていないようだ。
赤いベンツで外国人男性とホテルで不倫していることを文春砲だったかがさく裂したことがあった。
家庭がありながら、赤いベンツで不倫ということで、その裏側では公設第2秘書の給与を国から詐取していたというのだから、弁護士資格はともかく、議員の資質に欠けるとしか思えない。
岩手県選出だということで、東日本大震災のときは、少なからず被災地の皆さんには応援してきた証拠に福島の酒を購入したりしてきた。
こんな議員を選出するなら、岩手に何かあっても応援しようという気持ちにならない。
ただし、家宅捜索をした東京地検特捜部のやり方については、納得がいかない。
自民党安倍派を主とした裏金議員については政治資金規正法に反するにもかかわらず、お咎めなしということで、日本国憲法の法の下の平等ということが守られていない。
謂わば、検察は弱い者いじめが得意で、国家権力側にメスを入れることなんてはなからやる気がないことが証明された。
秘書給与を詐取し、赤いベンツで不倫している自民党女議員なんて味方してやることは全く考えられないが、自民党裏金議員と一緒に早く捕まえるべきではないのか。
許せない犯罪である。
2024年08月03日
敦賀2号機再稼働認めず 原発直下活断層恐れ
日本原子力発電の敦賀原子力発電所2号機(福井県)について、原子力規制委員会は2日、再稼働を事実上認めないとした審査チームの結論を了承し、審査結果を取りまとめるよう指示した。原電側の審査継続の要望を認めず、敦賀2号機は2012年の規制委発足後、初めて審査で「不合格」の原発になる見通しとなった。とメディアが伝えている。
7月27日と8月2日の読売によれば、2号機の審査を巡っては、原電が原子炉建屋直下に将来動く可能性がある活断層がないことを証明できておらず、規制委の審査チームが7月26日、原発の安全対策を定めた「新規制基準」に適合していないとの結論をまとめていた。
規制委の委員5人はこの日の会合で、原電の村松衛社長から意見を聴取。村松社長は今後1年以上かけて追加の掘削調査などを行うとし、「説明に全力を尽くしたい」と述べた。これに対し、山中伸介委員長は「(追加調査の計画は)具体性に乏しく、調査期間も不明確だ」と述べ、一連の審査に区切りをつけた。
規制委は秋頃にも、審査チームがまとめた審査書を正式に了承する見通し。
原子力規制委員会の審査はごく妥当なもので、原子炉建屋の直下に活断層がある可能性が高いとするなら、東京電力福島第一原発における事故を教訓に再稼働させないことで一安心である。
エネルギーを原子力でという原発推進派は、なんだかんだと言いながら、原発再稼働を企む。
2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻、侵略した結果、ウクライナの原発が危機に瀕している。
島国ではあるが、仮に日本の原発が攻撃されたらと考えただけでゾッとする。
1945年8月のヒロシマ、ナガサキへの米軍による原爆投下、1954年3月、ビキニ環礁での米国による水爆実験で第五福竜丸の乗組員久保山愛吉さんたちが被爆し、1979年3月、米国スリーマイル島、1986年、当時ソ連、現在ウクライナのチェルノブイリ、そして、2011年3月11日の福島と被爆者ばかりでなく、原発事故による被曝者が出ているにもかかわらず、21世紀のヒトラー+スターリンこと悪魔殺人鬼のプーチンは核兵器を使うぞとウクライナへの脅しの材料にしている。
再生可能な自然エネルギーの活用はドイツを筆頭に、中国でも太陽光の活用が進む。
活断層を甘くみてはいけない。
関東大震災から100年が経ち、そろそろ地震大国日本では次の大きな地震への心配をする人が少なくない。
1995年1月17日の阪神淡路、2023年3月11日の東日本大震災という二つの大きな地震災害が発生しているばかりでなく、十勝沖、中越、熊本、そして、2024年元旦に起きた能登地震と次から次へと地震災害が発生している。
幸い、原発事故は東京電力福島第一原発くらいだからいいが、地震の多い、日本海側では原発がひしめいていることから危険極まりない。
原子力規制委員会が真面目に取り組んで、大地震で活断層がずれてしまう前に再稼働を止めてくれてよかった。
災害は忘れた頃にやってくると言われている。
その忘れた頃が、多分、100年ということになるだろうから、首都圏だって、関東大震災クラスの大地震がもうそろそろ来るかもしれない。
原発推進派は自民党の議員と同じで自分さえよければいいという自己本位の考え方をしているので、全く信用できない。
原子力規制委員会の皆さんには引き続きがんばってもらいたい。
7月27日と8月2日の読売によれば、2号機の審査を巡っては、原電が原子炉建屋直下に将来動く可能性がある活断層がないことを証明できておらず、規制委の審査チームが7月26日、原発の安全対策を定めた「新規制基準」に適合していないとの結論をまとめていた。
規制委の委員5人はこの日の会合で、原電の村松衛社長から意見を聴取。村松社長は今後1年以上かけて追加の掘削調査などを行うとし、「説明に全力を尽くしたい」と述べた。これに対し、山中伸介委員長は「(追加調査の計画は)具体性に乏しく、調査期間も不明確だ」と述べ、一連の審査に区切りをつけた。
規制委は秋頃にも、審査チームがまとめた審査書を正式に了承する見通し。
原子力規制委員会の審査はごく妥当なもので、原子炉建屋の直下に活断層がある可能性が高いとするなら、東京電力福島第一原発における事故を教訓に再稼働させないことで一安心である。
エネルギーを原子力でという原発推進派は、なんだかんだと言いながら、原発再稼働を企む。
2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻、侵略した結果、ウクライナの原発が危機に瀕している。
島国ではあるが、仮に日本の原発が攻撃されたらと考えただけでゾッとする。
1945年8月のヒロシマ、ナガサキへの米軍による原爆投下、1954年3月、ビキニ環礁での米国による水爆実験で第五福竜丸の乗組員久保山愛吉さんたちが被爆し、1979年3月、米国スリーマイル島、1986年、当時ソ連、現在ウクライナのチェルノブイリ、そして、2011年3月11日の福島と被爆者ばかりでなく、原発事故による被曝者が出ているにもかかわらず、21世紀のヒトラー+スターリンこと悪魔殺人鬼のプーチンは核兵器を使うぞとウクライナへの脅しの材料にしている。
再生可能な自然エネルギーの活用はドイツを筆頭に、中国でも太陽光の活用が進む。
活断層を甘くみてはいけない。
関東大震災から100年が経ち、そろそろ地震大国日本では次の大きな地震への心配をする人が少なくない。
1995年1月17日の阪神淡路、2023年3月11日の東日本大震災という二つの大きな地震災害が発生しているばかりでなく、十勝沖、中越、熊本、そして、2024年元旦に起きた能登地震と次から次へと地震災害が発生している。
幸い、原発事故は東京電力福島第一原発くらいだからいいが、地震の多い、日本海側では原発がひしめいていることから危険極まりない。
原子力規制委員会が真面目に取り組んで、大地震で活断層がずれてしまう前に再稼働を止めてくれてよかった。
災害は忘れた頃にやってくると言われている。
その忘れた頃が、多分、100年ということになるだろうから、首都圏だって、関東大震災クラスの大地震がもうそろそろ来るかもしれない。
原発推進派は自民党の議員と同じで自分さえよければいいという自己本位の考え方をしているので、全く信用できない。
原子力規制委員会の皆さんには引き続きがんばってもらいたい。
2024年08月02日
引き揚げ者に体験を聞く意義
2023年夏から1年間にわたって読売が証言を掲載した「引き揚げを語る」では引き揚げから何を学ぶのか。引き揚げの記憶をどう引き継いでいけばいいのか。8月1日の紙面では、引き揚げを研究している加藤聖文駒澤大学教授に(小野仁記者)が聞いている。
引き揚げ者に今、体験を聞く意義は、体験者が語るそのリアリティだ。戦争を知らない世代は、体験者の話を聞くだけにとどまらず、体験者の語る体験談に想像力を働かせることが大切だ。
引き揚げによる犠牲者は満州(現中国東北部)、朝鮮半島北部、樺太(現サハリン)。満洲では24万5000人ぐらいで、ヒロシマの原爆犠牲者や沖縄戦の民間人犠牲者、東京大空襲の犠牲者より多い。
満州で犠牲者が多かったのは満州に1945年8月9日未明、ソ連軍が侵攻したことが一番大きな原因だ。
戦争で民間人が巻き込まれれば、難民が発生する。そこから弱者がこぼれていく。引き揚げ者が語る体験は戦争の現実を生々しく伝えている。
満州での体験は現代の問題と関連付けて考える必要がある。
2022年2月24日、ロシアの侵略侵攻を受けたウクライナで起きていることは、かつて満洲で起きたことと同じだ。
戦争で破壊された社会秩序が再建され、人間の倫理観が回復していく過程が占領期だが、その過程で殺人や性的暴行、略奪などあらゆることが起こってしまう。
引き揚げ体験では、ソ連兵の暴行、略奪の話がよく出てきた。
戦争はそもそも兵士の人間性を破壊するものだ。
ソ連兵の軍紀は乱れていたが、原因は独ソ戦の影響だ。殺し合いでモラルが崩壊し、人間の凶暴性が表出した。その兵士たちが極東に転戦してきた。
農業移民である満蒙開拓団の犠牲が目立ったのは、ソ連との国境周辺に配置され、軍隊に守られず、棄民とされたため満洲奥地から誰の助けもなく避難しないといけなかった。
さらに、残留婦人・残留孤児の問題も重なった。中国残留の日本人は開拓団員だった人が多い。70年代以降孤児は帰国を果たすが言語的な壁によって、日本の社会に適応できない。孤児の子どもたちも条件のいい職業に就けないため経済的に苦労する。ということで今も終わっていない。戦争の影響は100年ぐらいは続く。
引き揚げの記録をどう語り継いでいけばよいかは、戦後世代の語り部を育成する国の事業があり、私は「語り継ぎ部」と位置付けている。
体験者は確実にいなくなるので、できるだけ多くの人から体験を聞き出し。少しでも多くの人に語り継いでいけるようにしていかなければならない。と、結ぶ。
語り継ぐ戦争であるから、アジア太平洋戦争に強く関心を持つようになったのは何故なのか考えたことがある。
明治45年生まれだと耳にしていた父親が召集され、南方の島スマトラ島に送られ、何とか生き延びて帰国し、姉や自分たち3姉弟が生まれたが、普通の家庭の父と息子という親子関係ではなかったため、戦争のことを聞いた覚えはない。
父親はただ怖い存在で、親の顔色を窺いながら暮らしていた16歳になったばかりの夏休み、夜中に多量の血を吐いて、救急車で病院に運ばれ、手術ができないほどの病状ということで、そのまま、帰宅することなく、亡くなってしまった。53歳だった。
やはり、一番の影響は父親が召集され、無事帰国したことだろうか。
次いで、1962(昭和37)年10月、TVドラマとして放送された五味川純平『人間の條件』の影響は父親の召集よりももっと影響を受けたかもしれない。
中学1年生だったので、思春期真っただ中だったから、主人公梶を演じた加藤剛、その妻美千子を演じた藤由紀子の愛を踏みにじる戦争。妻の幸せを願い、再会を夢見ながらも、戦争に押し流され、妻の元に戻れない梶の生き方には大いに影響を受けた。
わが家の書棚に五味川純平の『人間の條件』(三一書房)があるのを見つけ、勉強せず、夢中で読んだものである。
その後、学生のときだったか,卒業してからか思い出せないが、小林正樹監督、仲代達也、新玉三千代の全6部をオールナイトで上映してくれたことがあって、夢中で観た覚えがある。
次いで、1962(昭和37)年10月、TVドラマとして放送された五味川純平『人間の條件』の影響は父親の召集よりももっと影響を受けた気がする。
中学1年生だったので、思春期真っただ中だったから、主人公梶を演じた加藤剛、その妻藤由紀子の愛と平和を願い、戦争に反対しながらも、時代に流されていく梶の生き方には大いに影響を受けた。
わが家の書棚に五味川純平の『人間の條件』(三一書房)があるのを見つけ、勉強せずに夢中で読んだものである。
その後、学生のときだったか,卒業してからか思い出せないが、小林正樹監督、仲代達也、新玉三千代で上映された『人間の條件』全6部だったかをオールナイトで上映してくれたことがあり、それこそ夢中で観た覚えがある。
ドラマでも、映画でも満蒙開拓団の人々が難民となって満洲の地を彷徨する様子が描かれていた記憶があり、1945年8月9日未明のソ連軍の満州侵攻と8月15日の敗戦後、シベリアと思しき地に抑留される梶の姿が鮮明に蘇るほど、満蒙開拓団とシベリア抑留のことを詳しく知りたいと思うようになった。
語り継ぐ戦争として、後年、北は北海道稚内から南は沖縄の摩文仁まで全国の慰霊碑を周り、祈りを捧げることになるとは思いもよらないことだった。
満州や朝鮮半島北部、樺太からの引き揚げ、シベリア抑留と引き揚げに関して、強い関心があるのは、『人間の條件』の影響に違いないのである。
主人公梶のような良心が自分にあるかどうかわからないが、戦争に反対し、自分の連れ合いや家族が戦争に巻き込まれないように願っているのは明らかに梶の生き方から影響を受けているとしか思えない。
引き揚げ者に今、体験を聞く意義は、体験者が語るそのリアリティだ。戦争を知らない世代は、体験者の話を聞くだけにとどまらず、体験者の語る体験談に想像力を働かせることが大切だ。
引き揚げによる犠牲者は満州(現中国東北部)、朝鮮半島北部、樺太(現サハリン)。満洲では24万5000人ぐらいで、ヒロシマの原爆犠牲者や沖縄戦の民間人犠牲者、東京大空襲の犠牲者より多い。
満州で犠牲者が多かったのは満州に1945年8月9日未明、ソ連軍が侵攻したことが一番大きな原因だ。
戦争で民間人が巻き込まれれば、難民が発生する。そこから弱者がこぼれていく。引き揚げ者が語る体験は戦争の現実を生々しく伝えている。
満州での体験は現代の問題と関連付けて考える必要がある。
2022年2月24日、ロシアの侵略侵攻を受けたウクライナで起きていることは、かつて満洲で起きたことと同じだ。
戦争で破壊された社会秩序が再建され、人間の倫理観が回復していく過程が占領期だが、その過程で殺人や性的暴行、略奪などあらゆることが起こってしまう。
引き揚げ体験では、ソ連兵の暴行、略奪の話がよく出てきた。
戦争はそもそも兵士の人間性を破壊するものだ。
ソ連兵の軍紀は乱れていたが、原因は独ソ戦の影響だ。殺し合いでモラルが崩壊し、人間の凶暴性が表出した。その兵士たちが極東に転戦してきた。
農業移民である満蒙開拓団の犠牲が目立ったのは、ソ連との国境周辺に配置され、軍隊に守られず、棄民とされたため満洲奥地から誰の助けもなく避難しないといけなかった。
さらに、残留婦人・残留孤児の問題も重なった。中国残留の日本人は開拓団員だった人が多い。70年代以降孤児は帰国を果たすが言語的な壁によって、日本の社会に適応できない。孤児の子どもたちも条件のいい職業に就けないため経済的に苦労する。ということで今も終わっていない。戦争の影響は100年ぐらいは続く。
引き揚げの記録をどう語り継いでいけばよいかは、戦後世代の語り部を育成する国の事業があり、私は「語り継ぎ部」と位置付けている。
体験者は確実にいなくなるので、できるだけ多くの人から体験を聞き出し。少しでも多くの人に語り継いでいけるようにしていかなければならない。と、結ぶ。
語り継ぐ戦争であるから、アジア太平洋戦争に強く関心を持つようになったのは何故なのか考えたことがある。
明治45年生まれだと耳にしていた父親が召集され、南方の島スマトラ島に送られ、何とか生き延びて帰国し、姉や自分たち3姉弟が生まれたが、普通の家庭の父と息子という親子関係ではなかったため、戦争のことを聞いた覚えはない。
父親はただ怖い存在で、親の顔色を窺いながら暮らしていた16歳になったばかりの夏休み、夜中に多量の血を吐いて、救急車で病院に運ばれ、手術ができないほどの病状ということで、そのまま、帰宅することなく、亡くなってしまった。53歳だった。
やはり、一番の影響は父親が召集され、無事帰国したことだろうか。
次いで、1962(昭和37)年10月、TVドラマとして放送された五味川純平『人間の條件』の影響は父親の召集よりももっと影響を受けたかもしれない。
中学1年生だったので、思春期真っただ中だったから、主人公梶を演じた加藤剛、その妻美千子を演じた藤由紀子の愛を踏みにじる戦争。妻の幸せを願い、再会を夢見ながらも、戦争に押し流され、妻の元に戻れない梶の生き方には大いに影響を受けた。
わが家の書棚に五味川純平の『人間の條件』(三一書房)があるのを見つけ、勉強せず、夢中で読んだものである。
その後、学生のときだったか,卒業してからか思い出せないが、小林正樹監督、仲代達也、新玉三千代の全6部をオールナイトで上映してくれたことがあって、夢中で観た覚えがある。
次いで、1962(昭和37)年10月、TVドラマとして放送された五味川純平『人間の條件』の影響は父親の召集よりももっと影響を受けた気がする。
中学1年生だったので、思春期真っただ中だったから、主人公梶を演じた加藤剛、その妻藤由紀子の愛と平和を願い、戦争に反対しながらも、時代に流されていく梶の生き方には大いに影響を受けた。
わが家の書棚に五味川純平の『人間の條件』(三一書房)があるのを見つけ、勉強せずに夢中で読んだものである。
その後、学生のときだったか,卒業してからか思い出せないが、小林正樹監督、仲代達也、新玉三千代で上映された『人間の條件』全6部だったかをオールナイトで上映してくれたことがあり、それこそ夢中で観た覚えがある。
ドラマでも、映画でも満蒙開拓団の人々が難民となって満洲の地を彷徨する様子が描かれていた記憶があり、1945年8月9日未明のソ連軍の満州侵攻と8月15日の敗戦後、シベリアと思しき地に抑留される梶の姿が鮮明に蘇るほど、満蒙開拓団とシベリア抑留のことを詳しく知りたいと思うようになった。
語り継ぐ戦争として、後年、北は北海道稚内から南は沖縄の摩文仁まで全国の慰霊碑を周り、祈りを捧げることになるとは思いもよらないことだった。
満州や朝鮮半島北部、樺太からの引き揚げ、シベリア抑留と引き揚げに関して、強い関心があるのは、『人間の條件』の影響に違いないのである。
主人公梶のような良心が自分にあるかどうかわからないが、戦争に反対し、自分の連れ合いや家族が戦争に巻き込まれないように願っているのは明らかに梶の生き方から影響を受けているとしか思えない。
2024年08月01日
再配達重荷 置き配でドライバー負荷軽減
佐川急便は10日、宅配便の荷物を玄関前などに届ける「置き配」を9月2日に本格的に始めると発表した。トラック運転手の残業規制強化で人手が不足する「2024年問題」に対応するため、再配達を減らしてドライバーの負担軽減を図る。と7月11日の読売(鈴木瑠偉記者)が伝えている。
宅配大手ではヤマト運輸が6月、日本郵便は2019年に置き配を始めている。国土交通省によると、2024年4月の再配達率は前年同月比1・0ポイント低い10・4%。今年度中に6%まで引き下げる目標を掲げている。
宅急便といえば、荷物を送ってもらうサービスと買い求めた品物を届けてもらう両者共にわが家は相当多いのではないかと思っている。
有機無農薬で生産した野菜を定期的に連れ合いと自分の姉などにクロネコヤマトまで軽トラで運ぶ。
伊予の宇和島吉田町の果樹園から河内晩柑などかんきつ類を定期的に届けてもらっているほか、秋田の大館のサンドリヨンからロシア製法の黒パンを、連れ合いと二人で飲んでいるサプリも定期的にお願いしている。
連れ合いは化粧品や衣類も通販で買い求めているから、これも宅急便のお世話になっている。
送った野菜のお礼を送ってもらうことも滅茶苦茶多い。
今、検討中なのは、イトーヨーカドーや近くのスーパーで買い求めている食料品や日用品を生協に注文するか思案しているところで、決まれば、さらに、生協の宅急便のお世話になる。
わが家の隣に引っ越してきた青年は玄関前にアマゾンの箱がよく届いているが、留守でも置いてあるのが置き配というのか。
自分はクレジットカードでネット決済することが嫌いなので、アマゾンでは買い物をしないが、郵便局からの送金や代引きがあれば、当然、便利だから使う。
不在、再配達はドライバーに申し訳ないので、なるべく留守にしないようにしているが、完全にはなくせないので、携帯に電話をもらえれば、その時間には留守にしないようにはできる。
2024年問題といえば、再配達をなくすために置き配が進めばドライバーの負荷が軽減するなら、ぜひとも、協力していきたい。
宅急便のドライバーには大いに感謝している。
宅配大手ではヤマト運輸が6月、日本郵便は2019年に置き配を始めている。国土交通省によると、2024年4月の再配達率は前年同月比1・0ポイント低い10・4%。今年度中に6%まで引き下げる目標を掲げている。
宅急便といえば、荷物を送ってもらうサービスと買い求めた品物を届けてもらう両者共にわが家は相当多いのではないかと思っている。
有機無農薬で生産した野菜を定期的に連れ合いと自分の姉などにクロネコヤマトまで軽トラで運ぶ。
伊予の宇和島吉田町の果樹園から河内晩柑などかんきつ類を定期的に届けてもらっているほか、秋田の大館のサンドリヨンからロシア製法の黒パンを、連れ合いと二人で飲んでいるサプリも定期的にお願いしている。
連れ合いは化粧品や衣類も通販で買い求めているから、これも宅急便のお世話になっている。
送った野菜のお礼を送ってもらうことも滅茶苦茶多い。
今、検討中なのは、イトーヨーカドーや近くのスーパーで買い求めている食料品や日用品を生協に注文するか思案しているところで、決まれば、さらに、生協の宅急便のお世話になる。
わが家の隣に引っ越してきた青年は玄関前にアマゾンの箱がよく届いているが、留守でも置いてあるのが置き配というのか。
自分はクレジットカードでネット決済することが嫌いなので、アマゾンでは買い物をしないが、郵便局からの送金や代引きがあれば、当然、便利だから使う。
不在、再配達はドライバーに申し訳ないので、なるべく留守にしないようにしているが、完全にはなくせないので、携帯に電話をもらえれば、その時間には留守にしないようにはできる。
2024年問題といえば、再配達をなくすために置き配が進めばドライバーの負荷が軽減するなら、ぜひとも、協力していきたい。
宅急便のドライバーには大いに感謝している。