月に一度の映画館行き、7月は民族文化映像研究所姫田忠義監督のドキュメンタリー『越後奥三面 山に生かされた日々』を梅雨明けの東京はポレポレ東中野で観てきた。
日頃、エアコンとは縁のない生活をしているので、駅まで行く車、電車、館内、その後の食事処、帰路の電車に帰りの車とずっとエアコンだったから、わが家に帰ってきてほっとしている。
時間より少し早く着いたので、開場するまで待っていたら、ご亭主が奥三面出身で、ご自身は浅草生まれで浅草育ちの自分と同世代と思しき女性に声をかけられた。
「『おくみおもて』と読むのよね」と地名の呼び方も教えてもらった。
越後とはいいながら、山形県との県境、朝日連峰の近くの山峡の集落が舞台で、その共同体で暮らす人々の冬、春、夏、秋、そしてまた冬、という巡りくる季節の暮しを切り取った作品で、撮影されたのは村がダム建設で水没することで住民が移住するまでの80年代半ばまでの頃で、デジタルリマスター版として、リバイバル上映された。
村がダムで沈むと言えば、神山征二郎監督、加藤嘉主演『故郷』を80年代前半だったかに観た覚えがある。
揖斐川の上流、岐阜県徳山村が舞台だった。
越後の共同体での暮らしといえば、佐藤真監督『阿賀に生きる』と小林茂監督『風の波紋』というドキュメンタリー作品を観ている。阿賀野川流域と越後の妻有が舞台で、奥三面はさらに山峡ということと越後の妻有は撮影年代が異なるので、様相が違った印象である。
連れ合いの両親が越後は妙高の出身ということで、故郷を車で訪ねたことがあるが、クマが出ることは同じでも、妙高の村は山峡というほどではなく9軒の限界集落だった。
首都圏の田舎町に生まれ育ち、小学校5年生の頃には、父親から畑を手伝わさせられ、鍬で耕したりしていたが、奥三面とは比較にもならない首都圏の田舎町だったから、生活の厳しさが全く異なる。
それでも、当時、共同体のに雰囲気が残っていた時代で、舗装していない街の道路を道普請したことがあるし、御嶽講中に加入させられてもいたし、隣組などという組織もあったりで、共同体としての意識は強かった時代だった。
奥三面という山峡での暮らしは過酷で、農耕民族と狩猟民族が一緒に住んでいるような暮らしぶりで、ほとんど自給自足だから、コメを作るし、クマを鉄砲で撃ったり、罠で殺したりし、解体して、住民のたんぱく質にしているなど大自然との共存には智慧が使われているのだ。
印象的なのは、大自然に畏怖する気持ちが強いのか、山の神を筆頭に八百万の神に祈りを捧げ、お供えを欠かさないことである。
東北の寒村といえば、娘たちが身売りさせられるほど貧しかった。
佐藤三治郎『さるこ沼哀歌 出羽路人売証文秘話』(無名舎出版)を買い求めて読んだことがある。
身売りさせられた娘が沼に身を投げる話で、哀しい、救いのない話であった。
その点、奥三面は共同体として、住民が力を併せ、大自然からの恵みに感謝し、協力しながら生活を立ち行かせていたので、娘たちは身売りせずにすんだかもしれない。
奥三面で暮らす少女のほっぺが真っ赤で、肌の色はあくまでも白く可憐である。
可憐な少女が身売りさせられるようなことがある社会であってはならない。
共同体の佳さである助けあうことで、大自然の厳しさと共存する姿に人が生きるということをまた教えてもらった。
ドキュメンタリー映画が好きだが、勉強になることは間違いないし、多くの人に鑑賞することを薦めたい。