1945年7月10日に米軍が仙台市中心部を爆撃した仙台空襲から79年がたった。宮城県内最大の戦災にもかかわらず、犠牲者数や投下された爆弾の種類などは市史や展示によって異なる。戦禍の記憶を忘れず、できる限り正確に語り継いでいくため、市には再検証が求められる。と河北新報WEB(編集部・大芳賀陽子さん)が伝えている。
市は毎年7月10日に開催する戦没者戦災死者合同慰霊祭で、犠牲者数を「1399人」と発表してきた。戦災復興記念館のリーフレットにある死者数と身元不明者数を合計した数字で、河北新報も記事で1399人と記述したものがある。
空襲の犠牲者名簿は戦争体験者や郷土史家らが検証し、書籍「仙台はフェニックス」(95年)にまとめた。各種資料で確認できた犠牲者数は1064人。その他に犠牲者と推測されるものの、確認できない人が335人いると記す。一方、8月の空襲で亡くなった人も7人含まれると注釈しており、仙台市史は犠牲者を「1400人近い人」と表記する。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で仙台に行っていないことが気になっていた。
何故、行っていないのか、考えてみたら、東日本大震災の津波の影響で東京電力福島第一原発が事故を起こし、放射能で汚染されたから、福島に近いところは足が遠のいたということか。
仙台といえば、およそ半世紀前、上野〜仙台間をL特急があった頃、何回か行っている。
50年も前のことだから、街の様子は様変わりしたことだろう。当時、駅近くにあった仙台ホテルに宿泊したことがある。自分が泊ったことがあるホテルでもトップクラスのホテルだったが、2009年に閉業したというニュースが流れた。
先代の奥座敷と呼ばれていた仙山線の作並温泉には泊まったことがあるが、秋保大滝は見学しても、秋保温泉には泊っていない。
繁華街だった一番町で土産に買い求めたのは、当時、最中と笹かまぼこだったと記憶する。
一番町は賑やかだったが、今はどうなっているか興味深い。
さて、語り継ぐ戦争だから、米軍の空爆による犠牲者の数はできるだけ正確な数字が求められるはずだ。
何故なら、一人ひとりに人生があり、人の数だけ物語りがあるはずだからだ。
79年経ってしまい、今さら正確な数字などわかるわけがないという向きもあるかもしれない。
ところが、空襲の犠牲者の数を正確に公表している自治体があるのだ。
越後の花火で知られる長岡市である。
河合継之助、山本五十六でも知られる長岡市にも戦災資料館があり、2017年8月訪れたとき、職員に教えてもらった。
米国との戦争でいえば、ミッドウエー海戦において、日米双方の犠牲者の名前を調べ上げた澤地久枝さんの偉業もある。
約とかおよそという表現では自分は戦没死没しても数にいれてもらっていないかもしれないというひとだっているはずだ。
考えてみれば、人間の命が大切にされていないことにも通じる。