400人以上が犠牲になった「高知大空襲」から4日で79年。高知市で行われた追悼式典に、当時8歳だった男性岡村正弘さんが参列した。空襲で母と妹を亡くした岡村さんが、当時の記憶や平和への思いを語った。とKUTVが伝えている。
高知市は、犠牲者を追悼する「平和祈念式」を2005年から開いていて、4日は、空襲を経験した人や犠牲者の遺族ら60人ほどが参列した。
空襲で犠牲になった大勢の人の遺体が仮埋葬されていた場所に、「平和祈念碑」が建てられ、毎年、犠牲者が弔われている。参列した人たちは、「祈念碑」に鏡川の水をかけたり献花したりして、犠牲者の冥福を祈った。
あの日、米軍機B29から焼夷弾が降り注ぐ中、岡村さんは母と妹とともに、懸命に防空壕へ避難した。
「(防空壕の)中でじっとしよったけどね、7月4日の晩は暑うてね、きょうも暑いですけど。暑うて、いっぱいの人で、息苦しゅうなってきてね、『ここで辛抱せぇ!』と言われても、よう辛抱せんなってね…。それで私は、母の手を振り切って、外へ飛び出た」
それが、生死を分けた。「安全」だったはずの防空壕の中で、母と妹は、亡くなった。
「死んだ者は生き返らんきね。私は母と妹が亡くなったがやけんど。できるだけ当時の話をして、いま、日本が危険な道へ進みゆうき、これを止めて、平和の道へ行くように、子どもたちにも(語り部として)話をしている」
変わり果てた母の死に顔を至近距離で見たことに岡村さんは相当なショックを受け、そこから50年以上、60代になり仕事を定年退職するまで戦争の話ができなかった。それでも現在は、「戦争は二度としてはならない」と、学校などで子どもたちに自身の体験を語り続けている。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で2008年から北は北海道稚内から南は沖縄摩文仁まで、全国の慰霊碑、供養塔などを周って手を合わせてきた。
2020年からのコロナ禍でどこにも出かけられなくなってしまった間、加齢が要因であろうか、急激な心身の衰えに見舞われ、もうどこにも出かけられなくなってしまったかと自分に失望していた。
しかし、2024年になって、いくらか持ち直してきたので、語り継ぐ戦争、大阪でお世話になったガイド氏の訃報を頂戴しているので、墓参りに行かなければならないと考えている。
さて、高知の空襲である。
米軍のB29125機が1060・8米dの焼夷弾を投下したとされている。
死者401人、罹災人口40737人。とWikipediaにある。
語り継ぐ戦争で、四国にはまだ行ったことがないばかりか、高知は死ぬまで行くことはないかもしれないと思っていた土地だから、空襲で犠牲者が出ていることだけでも書いておきたくなった。
小豆島や栗林公園は観光で訪れたことがある。四国といえば、遍路であるが、遍路にも挑戦したい気持ちがあったくらいだから、一度は語り継ぐ戦争でも訪れてみたい土地である。
四国とのご縁は、宇和島の吉田町から河内晩柑を取り寄せて食しているので、現在は、河内晩柑の生産者である兵頭さんとは接点があるくらいである。
高知といえば、路面電車があると耳にしたことがある。
鹿児島、ナガサキ、ヒロシマそして熊本と路面電車に乗った。
土佐の時代に遡れば坂本龍馬が一番の有名人。
岡村さんの話では、方言が豊かに残っていて嬉しくなったが、小学校2年生で、母親と妹を亡くしたということで、こういう人が生きている間はまだ安心だが、先のことを考えると、だんだん危なくなってきていることだけは確かだから、貴重なコメントである。
どうも、戦争が近づいているようで心配でならない。