昨日、七夕にもかかわらず、気温上昇で七夕史上過去記憶にない蒸し暑さだった。
例年は梅雨時で、七夕伝説のおりひめとひこぼしが逢えないことが多かった。
夜、あまりにも熱いので開けて寝たら、のどを痛め、これから医者に行く。
都知事選挙については、書く気持ちなど全くなかった。偏向メディアが取り上げていた3人は応援する気持ちなど持ち合わせていなかったが、お医者の先生がYOUTUBEにアップされていたのでよく視聴した。
利権の自民党が応援する利権の人、消費税を上げないと言いながら上げた民主党のうそつきの残党立憲が応援する人でなく、若い人にと思ったがヒロシマから出張ってきた上から目線の生意気そうな候補より、お医者の先生に当選してもらいたいと思ったが、結果はメディアの力に影響される人が多いということがよくわかった。
さて、本日のテーマは犯罪被害者支援の「心情伝達制度」である。
横浜市で2000年、当時22歳の長女を殺害された渡辺保さん(75)が5日、殺人罪などで無期懲役が確定した受刑者の男(46)の心境などを記した書面を受け取った。被害者や遺族の思いを刑務所職員を通じて加害者に伝える「心情等伝達制度」を利用し、男に初めて気持ちをぶつけた渡辺さんは「思いを言えたのはよかった」とする一方、「過去のことは忘れたい」という男の言葉に憤った。
渡辺さんの長女は00年10月、同市内の路上で、勤め先から帰宅途中に車にはねられた上、包丁で首を刺されて殺害された。3年後、美保さんの中学時代の同級生だった男が自首し、逮捕された。
05年3月、地裁で無期懲役の判決が言い渡されると、男は傍聴席の渡辺さんに向かって、「お前が迎えに行かなかったから娘は死んだんだよ」と暴言を吐いた。06年8月、精神的に不安定になっていた連れ合いは、電車にはねられて53歳で亡くなった。
犯罪被害者らでつくる「にじの会」代表を務める渡辺さん。2023年12月に始まった心情等伝達制度により、07年に最高裁で無期懲役が確定していた男に初めて思いを伝える機会を得た。6月18日、刑務所職員に心情を伝えた。
「想像力を磨け」というのは、毎日、書いている中で、いつの間にか身についてしまった口癖である。
語り継ぐ戦争をメインに犯罪被害者支援を訴えてきた原動力は「自由のために」である。
ために、本を読み、映画を観て想像力を磨いてきた。
戦争と犯罪、いずれにしても、殺す側と殺される側に大別できそうな中で、もし、自分が、家族がと考えたことがあれば、戦争や犯罪で傷つき、斃れ、あるいは倒れた時に何を思うだろうか。
娘を殺されたら、許されるものなら、加害者を殺してやりたいと思っても当然のことである。
遺族である父親が団塊の世代で同世代だから、連れ合いまでもが天に召されてしまったことで、ダメージは倍加なんてものではないだろう。
無期懲役で服役中の娘の同級生の加害者に限らず、反省などしないだろうし、仮に反省したとしても、娘が帰ってこられるわけでもない。
それでも、心に空いた穴をふさごうと刑務所に収容されている加害者に手紙を送ってしまったのであろう。
そのやむにやまれぬ行動は、加害者の気持ちがわかってよかったということで理解する。
悪い奴は死刑にすべきであるが、無期懲役でも反省はできるだろうから、反省を求めたい遺族の気持ちが伝わってきて涙がこぼれそうになった。
2024年07月08日
2024年07月07日
法医学解剖と検視 冤罪を減らせ
NHKスペシャル「法医学者たちの告白」を一部視聴することができたので書いておく。
「警察や検察から解剖の依頼を受け、死因を判定する法医学者。判断を間違えば、犯罪を見逃したり、えん罪を作り出したりすることにつながる。彼らの仕事は科学的で中立性が高いと信じられてきたが、検察側と弁護側の鑑定結果が対立するケースも少なくない。裁判のやり直し=再審において争点になることも多い。法医学者になる医師も減っている。一体何が起きているのか。法医学者たちの初めての告白から日本の司法制度の課題に迫る。」と㏋にある。
年間400体もの解剖を行う千葉大学法医学教室岩瀬博太郎教授。日本でも有数の規模を誇る法医学教室であるが、丁寧な解剖で定評がある反面解剖数の増加で警察からは効率化を求められ、岩瀬教授は困惑している。
国立大学だから、国からの予算措置を求めているのだが、検視官が3倍に増えている反面、法医学者は増えていない。
次いで、年間250体の解剖を行い、これまで4000体もの解剖に携わってきた北海道旭川医科大学の女性法医学者が紹介される。
「祈ることによる癒やしがないと、法医学は続けられない」と教会で折々祈りをささげる。
年間20万人の異状死のうち、犯罪の疑いがあり、死因が不明の遺体は年間1万体にも及ぶ。
その1万体の遺体に対して司法解剖は行われる。
犯罪被害者支援を訴えてきたくらいだから、犯罪学、被害者学、法医学に大いに興味、関心を持っている。
法医学者といえば、東京大学の上野正吉博士が『法医学』の著作を刊行されていて、自分も買い求めたくらいだから、あまりにも有名だが、次いで、東京監察医務院で監察医だった上野正彦さんもTVに出演したりされていたから知られているだろう。
西丸與一『法医学教室の午後』(朝日文庫)も読んだことがあるような記憶がある。
視聴したことはないが、『法医学教室の事件ファイル」というTVドラマもあったから、視聴者も関心が高いと言ってもいいのではないか。
法医学者が犯罪の疑いがある異状死の解剖をする一方で、TVドラマ『臨場』では警察の検視官の活躍が描かれていた。
犯罪の可能性があれば、すべからく遺体を解剖するのが望ましいだろうが、法医学教室の人手不足もあるし、検視官の検視で済ませることも現実としてはあるということか。
近年の犯罪では、女性に酒を飲ませ、或いはクスリを盛って抵抗できなくして性的暴行をするという卑劣な犯罪が増えている。
ところが、法医学的に言えば、睡眠導入剤などを盛られれば、事件後、調べれば、盛られたことがわかってしまうのだ。
和歌山の毒カレー事件があったが、確かヒ素が使われたと記憶する。個人的に持つような物質ではないのに自宅にあったことが驚きだった。
トリカブトを使うとか、犯罪者と犯罪を見抜く法医学者のバトルは外野席から見ていると興味津々であるが、当事者はたいへんである。
見落としがあれば、冤罪につながるし、犯人を見逃してしまうことにもなる。
TVドラマ、『相棒』でも取り上げていたが、検視と遺体解剖が行政の区域で違った扱いがあると指摘していた。
国は法治国家だというなら、解剖することで、犯罪の有無をチェックする法医学教室にもっと、予算措置すべきである。
「警察や検察から解剖の依頼を受け、死因を判定する法医学者。判断を間違えば、犯罪を見逃したり、えん罪を作り出したりすることにつながる。彼らの仕事は科学的で中立性が高いと信じられてきたが、検察側と弁護側の鑑定結果が対立するケースも少なくない。裁判のやり直し=再審において争点になることも多い。法医学者になる医師も減っている。一体何が起きているのか。法医学者たちの初めての告白から日本の司法制度の課題に迫る。」と㏋にある。
年間400体もの解剖を行う千葉大学法医学教室岩瀬博太郎教授。日本でも有数の規模を誇る法医学教室であるが、丁寧な解剖で定評がある反面解剖数の増加で警察からは効率化を求められ、岩瀬教授は困惑している。
国立大学だから、国からの予算措置を求めているのだが、検視官が3倍に増えている反面、法医学者は増えていない。
次いで、年間250体の解剖を行い、これまで4000体もの解剖に携わってきた北海道旭川医科大学の女性法医学者が紹介される。
「祈ることによる癒やしがないと、法医学は続けられない」と教会で折々祈りをささげる。
年間20万人の異状死のうち、犯罪の疑いがあり、死因が不明の遺体は年間1万体にも及ぶ。
その1万体の遺体に対して司法解剖は行われる。
犯罪被害者支援を訴えてきたくらいだから、犯罪学、被害者学、法医学に大いに興味、関心を持っている。
法医学者といえば、東京大学の上野正吉博士が『法医学』の著作を刊行されていて、自分も買い求めたくらいだから、あまりにも有名だが、次いで、東京監察医務院で監察医だった上野正彦さんもTVに出演したりされていたから知られているだろう。
西丸與一『法医学教室の午後』(朝日文庫)も読んだことがあるような記憶がある。
視聴したことはないが、『法医学教室の事件ファイル」というTVドラマもあったから、視聴者も関心が高いと言ってもいいのではないか。
法医学者が犯罪の疑いがある異状死の解剖をする一方で、TVドラマ『臨場』では警察の検視官の活躍が描かれていた。
犯罪の可能性があれば、すべからく遺体を解剖するのが望ましいだろうが、法医学教室の人手不足もあるし、検視官の検視で済ませることも現実としてはあるということか。
近年の犯罪では、女性に酒を飲ませ、或いはクスリを盛って抵抗できなくして性的暴行をするという卑劣な犯罪が増えている。
ところが、法医学的に言えば、睡眠導入剤などを盛られれば、事件後、調べれば、盛られたことがわかってしまうのだ。
和歌山の毒カレー事件があったが、確かヒ素が使われたと記憶する。個人的に持つような物質ではないのに自宅にあったことが驚きだった。
トリカブトを使うとか、犯罪者と犯罪を見抜く法医学者のバトルは外野席から見ていると興味津々であるが、当事者はたいへんである。
見落としがあれば、冤罪につながるし、犯人を見逃してしまうことにもなる。
TVドラマ、『相棒』でも取り上げていたが、検視と遺体解剖が行政の区域で違った扱いがあると指摘していた。
国は法治国家だというなら、解剖することで、犯罪の有無をチェックする法医学教室にもっと、予算措置すべきである。
2024年07月06日
400人以上犠牲 高知大空襲
400人以上が犠牲になった「高知大空襲」から4日で79年。高知市で行われた追悼式典に、当時8歳だった男性岡村正弘さんが参列した。空襲で母と妹を亡くした岡村さんが、当時の記憶や平和への思いを語った。とKUTVが伝えている。
高知市は、犠牲者を追悼する「平和祈念式」を2005年から開いていて、4日は、空襲を経験した人や犠牲者の遺族ら60人ほどが参列した。
空襲で犠牲になった大勢の人の遺体が仮埋葬されていた場所に、「平和祈念碑」が建てられ、毎年、犠牲者が弔われている。参列した人たちは、「祈念碑」に鏡川の水をかけたり献花したりして、犠牲者の冥福を祈った。
あの日、米軍機B29から焼夷弾が降り注ぐ中、岡村さんは母と妹とともに、懸命に防空壕へ避難した。
「(防空壕の)中でじっとしよったけどね、7月4日の晩は暑うてね、きょうも暑いですけど。暑うて、いっぱいの人で、息苦しゅうなってきてね、『ここで辛抱せぇ!』と言われても、よう辛抱せんなってね…。それで私は、母の手を振り切って、外へ飛び出た」
それが、生死を分けた。「安全」だったはずの防空壕の中で、母と妹は、亡くなった。
「死んだ者は生き返らんきね。私は母と妹が亡くなったがやけんど。できるだけ当時の話をして、いま、日本が危険な道へ進みゆうき、これを止めて、平和の道へ行くように、子どもたちにも(語り部として)話をしている」
変わり果てた母の死に顔を至近距離で見たことに岡村さんは相当なショックを受け、そこから50年以上、60代になり仕事を定年退職するまで戦争の話ができなかった。それでも現在は、「戦争は二度としてはならない」と、学校などで子どもたちに自身の体験を語り続けている。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で2008年から北は北海道稚内から南は沖縄摩文仁まで、全国の慰霊碑、供養塔などを周って手を合わせてきた。
2020年からのコロナ禍でどこにも出かけられなくなってしまった間、加齢が要因であろうか、急激な心身の衰えに見舞われ、もうどこにも出かけられなくなってしまったかと自分に失望していた。
しかし、2024年になって、いくらか持ち直してきたので、語り継ぐ戦争、大阪でお世話になったガイド氏の訃報を頂戴しているので、墓参りに行かなければならないと考えている。
さて、高知の空襲である。
米軍のB29125機が1060・8米dの焼夷弾を投下したとされている。
死者401人、罹災人口40737人。とWikipediaにある。
語り継ぐ戦争で、四国にはまだ行ったことがないばかりか、高知は死ぬまで行くことはないかもしれないと思っていた土地だから、空襲で犠牲者が出ていることだけでも書いておきたくなった。
小豆島や栗林公園は観光で訪れたことがある。四国といえば、遍路であるが、遍路にも挑戦したい気持ちがあったくらいだから、一度は語り継ぐ戦争でも訪れてみたい土地である。
四国とのご縁は、宇和島の吉田町から河内晩柑を取り寄せて食しているので、現在は、河内晩柑の生産者である兵頭さんとは接点があるくらいである。
高知といえば、路面電車があると耳にしたことがある。
鹿児島、ナガサキ、ヒロシマそして熊本と路面電車に乗った。
土佐の時代に遡れば坂本龍馬が一番の有名人。
岡村さんの話では、方言が豊かに残っていて嬉しくなったが、小学校2年生で、母親と妹を亡くしたということで、こういう人が生きている間はまだ安心だが、先のことを考えると、だんだん危なくなってきていることだけは確かだから、貴重なコメントである。
どうも、戦争が近づいているようで心配でならない。
高知市は、犠牲者を追悼する「平和祈念式」を2005年から開いていて、4日は、空襲を経験した人や犠牲者の遺族ら60人ほどが参列した。
空襲で犠牲になった大勢の人の遺体が仮埋葬されていた場所に、「平和祈念碑」が建てられ、毎年、犠牲者が弔われている。参列した人たちは、「祈念碑」に鏡川の水をかけたり献花したりして、犠牲者の冥福を祈った。
あの日、米軍機B29から焼夷弾が降り注ぐ中、岡村さんは母と妹とともに、懸命に防空壕へ避難した。
「(防空壕の)中でじっとしよったけどね、7月4日の晩は暑うてね、きょうも暑いですけど。暑うて、いっぱいの人で、息苦しゅうなってきてね、『ここで辛抱せぇ!』と言われても、よう辛抱せんなってね…。それで私は、母の手を振り切って、外へ飛び出た」
それが、生死を分けた。「安全」だったはずの防空壕の中で、母と妹は、亡くなった。
「死んだ者は生き返らんきね。私は母と妹が亡くなったがやけんど。できるだけ当時の話をして、いま、日本が危険な道へ進みゆうき、これを止めて、平和の道へ行くように、子どもたちにも(語り部として)話をしている」
変わり果てた母の死に顔を至近距離で見たことに岡村さんは相当なショックを受け、そこから50年以上、60代になり仕事を定年退職するまで戦争の話ができなかった。それでも現在は、「戦争は二度としてはならない」と、学校などで子どもたちに自身の体験を語り続けている。
語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚で2008年から北は北海道稚内から南は沖縄摩文仁まで、全国の慰霊碑、供養塔などを周って手を合わせてきた。
2020年からのコロナ禍でどこにも出かけられなくなってしまった間、加齢が要因であろうか、急激な心身の衰えに見舞われ、もうどこにも出かけられなくなってしまったかと自分に失望していた。
しかし、2024年になって、いくらか持ち直してきたので、語り継ぐ戦争、大阪でお世話になったガイド氏の訃報を頂戴しているので、墓参りに行かなければならないと考えている。
さて、高知の空襲である。
米軍のB29125機が1060・8米dの焼夷弾を投下したとされている。
死者401人、罹災人口40737人。とWikipediaにある。
語り継ぐ戦争で、四国にはまだ行ったことがないばかりか、高知は死ぬまで行くことはないかもしれないと思っていた土地だから、空襲で犠牲者が出ていることだけでも書いておきたくなった。
小豆島や栗林公園は観光で訪れたことがある。四国といえば、遍路であるが、遍路にも挑戦したい気持ちがあったくらいだから、一度は語り継ぐ戦争でも訪れてみたい土地である。
四国とのご縁は、宇和島の吉田町から河内晩柑を取り寄せて食しているので、現在は、河内晩柑の生産者である兵頭さんとは接点があるくらいである。
高知といえば、路面電車があると耳にしたことがある。
鹿児島、ナガサキ、ヒロシマそして熊本と路面電車に乗った。
土佐の時代に遡れば坂本龍馬が一番の有名人。
岡村さんの話では、方言が豊かに残っていて嬉しくなったが、小学校2年生で、母親と妹を亡くしたということで、こういう人が生きている間はまだ安心だが、先のことを考えると、だんだん危なくなってきていることだけは確かだから、貴重なコメントである。
どうも、戦争が近づいているようで心配でならない。
2024年07月05日
旧優生保護法は違憲
旧優生保護法(1948〜96年)の下で不妊手術を強制されたのは憲法違反だとして、被害者らが国に損害賠償を求めた5件の訴訟の上告審で、最高裁大法廷(裁判長・戸倉三郎長官)は3日、旧法を「違憲」と指摘して国側に賠償を命じる判決を言い渡した。原告側勝訴の4件の高裁判決が確定。原告側の請求を棄却した仙台高裁判決は破棄し、審理を同高裁に差し戻した。とメディアが伝えている。
7月3日の読売によれば、判決は、不法行為から20年で賠償請求権が消滅する「除斥期間」について、「著しく正義・公平の理念に反し、容認することができない場合は適用されない」との初判断を示し、今回の原告には適用しなかった。
NHK「クローズアップ現代」でも、この問題を取り上げていたのを視聴することができた。
「7月3日、旧優生保護法のもと、不妊手術を強制された障害者たちが国に賠償を求めた裁判の最高裁判決が言い渡される。子を持つ権利を奪われ苦しんできた原告たちがその行方を見守る。一方「障害者に子育てはできない」という考えは今も社会に根強く、支える仕組みも整っていない。旧優生保護法の違憲訴訟の判決の日。子どもを産み育てる権利をめぐる実情をルポし、「差別のない社会」を実現するために何ができるのか、考えていく。」
6月30日の読売「広角 多角」で田中誠文化部次長が障がい者との出会いで二つのやめたこととして、「障がい者を特別扱いすること」、障がい者に「頑張っているね」と声をかけることを心掛けているというのだ。
きっかけはNHKのドラマ「パーセント」を視聴したからだそうな。
旧優生保護法が違憲だと訴えていることは当然承知していたが、コメントするのは初めてのことである。
障がい者に子育てができないなんて言うことはないということは、連れ合いの中学校の同級生が聾唖者で、優秀なその女性は公的な仕事に就き、やがて結婚し、子どもにも恵まれた。
事情は知らないが離婚し、シングルで子育てしたらしい。
クラスで人気者だったらしい連れ合いの所に、クラス会の問い合わせが来ていたから、連れ合いは彼女に好かれていたのだろう。
さて、れいわ新選組の山本太郎代表は、重度の障がい者を国会に送り、街頭演説では、「人は生きているだけで価値がある」差別をなくし、誰でもが住みやすい社会にしていこうと呼びかけている。
実に立派な考え方で、敬服する。
ところが、団塊の世代の一員でである自分は、見たくないものをみてしまったことがあるのだ。
弟が統合失調症でその方面の病院に入院中の高齢の男性が遺伝で弟と同じ病気の次世代が生まれては困るからと子どもを持たないことにしたのだと耳にした時、同席していた連れ合いが激しく件の男性を詰ったのである。
自分も男性の考え方を支持する立場だったから、詰った女性のことをみつめてしまった。
日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社)では「心神喪失」の名の下、罪に問われねヤツがいる!帯というか腰巻には「この国の無法ぶりを暴いた衝撃のノンフィクション」と書いてある。
精神が壊れてしまえば、犯罪をやってもその責任を問えない。ということの問題点を指摘したものだ。
障がい者と一括りできないほど、障がいはいろいろで、高齢になってくると、耳鳴りがしたり、難聴になる。歯だって、自前でなくなる。
自分の命より大事だと思っている連れ合いは在職中、人工股関節の手術を受けているから歩けるが、これがなければ歩けない。だから障がい者手帳を持っている。
優生保護という思想が優秀な人間、カネがある人間は長生きしてもいいが、貧乏人は医療費がかかるから早く死ねといったらしい中折れハットの国会議員が言った言動に通じるから嫌いな言葉だ。
語り継ぐ戦争では、満州や朝鮮半島でソ連兵などから性的暴行を受け生憎妊娠してしまった女性が博多や佐世保に引き揚げ後、中絶手術を受けさせられた。
ソ連兵の子どもを産ませるわけにはいかないという理由で。
ところが、特攻隊の街として知られる知覧では、戦争に敗れ、進駐してきた米兵に旅館の仲居が性的暴行を受け、生まれた子どもの肌の色が黒かったという。
戦争に勝って進駐してきた米国の兵隊は性暴力で他国の女性に子どもを産ませている。
優生保護思想は持ち合わせていないが、犯罪被害者支援を訴えてきた立場であるから、心神喪失、心神耗弱だからという理由で、罪を問われないのはおかしいという考え方に賛成である。
難しい問題ではある。
7月3日の読売によれば、判決は、不法行為から20年で賠償請求権が消滅する「除斥期間」について、「著しく正義・公平の理念に反し、容認することができない場合は適用されない」との初判断を示し、今回の原告には適用しなかった。
NHK「クローズアップ現代」でも、この問題を取り上げていたのを視聴することができた。
「7月3日、旧優生保護法のもと、不妊手術を強制された障害者たちが国に賠償を求めた裁判の最高裁判決が言い渡される。子を持つ権利を奪われ苦しんできた原告たちがその行方を見守る。一方「障害者に子育てはできない」という考えは今も社会に根強く、支える仕組みも整っていない。旧優生保護法の違憲訴訟の判決の日。子どもを産み育てる権利をめぐる実情をルポし、「差別のない社会」を実現するために何ができるのか、考えていく。」
6月30日の読売「広角 多角」で田中誠文化部次長が障がい者との出会いで二つのやめたこととして、「障がい者を特別扱いすること」、障がい者に「頑張っているね」と声をかけることを心掛けているというのだ。
きっかけはNHKのドラマ「パーセント」を視聴したからだそうな。
旧優生保護法が違憲だと訴えていることは当然承知していたが、コメントするのは初めてのことである。
障がい者に子育てができないなんて言うことはないということは、連れ合いの中学校の同級生が聾唖者で、優秀なその女性は公的な仕事に就き、やがて結婚し、子どもにも恵まれた。
事情は知らないが離婚し、シングルで子育てしたらしい。
クラスで人気者だったらしい連れ合いの所に、クラス会の問い合わせが来ていたから、連れ合いは彼女に好かれていたのだろう。
さて、れいわ新選組の山本太郎代表は、重度の障がい者を国会に送り、街頭演説では、「人は生きているだけで価値がある」差別をなくし、誰でもが住みやすい社会にしていこうと呼びかけている。
実に立派な考え方で、敬服する。
ところが、団塊の世代の一員でである自分は、見たくないものをみてしまったことがあるのだ。
弟が統合失調症でその方面の病院に入院中の高齢の男性が遺伝で弟と同じ病気の次世代が生まれては困るからと子どもを持たないことにしたのだと耳にした時、同席していた連れ合いが激しく件の男性を詰ったのである。
自分も男性の考え方を支持する立場だったから、詰った女性のことをみつめてしまった。
日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社)では「心神喪失」の名の下、罪に問われねヤツがいる!帯というか腰巻には「この国の無法ぶりを暴いた衝撃のノンフィクション」と書いてある。
精神が壊れてしまえば、犯罪をやってもその責任を問えない。ということの問題点を指摘したものだ。
障がい者と一括りできないほど、障がいはいろいろで、高齢になってくると、耳鳴りがしたり、難聴になる。歯だって、自前でなくなる。
自分の命より大事だと思っている連れ合いは在職中、人工股関節の手術を受けているから歩けるが、これがなければ歩けない。だから障がい者手帳を持っている。
優生保護という思想が優秀な人間、カネがある人間は長生きしてもいいが、貧乏人は医療費がかかるから早く死ねといったらしい中折れハットの国会議員が言った言動に通じるから嫌いな言葉だ。
語り継ぐ戦争では、満州や朝鮮半島でソ連兵などから性的暴行を受け生憎妊娠してしまった女性が博多や佐世保に引き揚げ後、中絶手術を受けさせられた。
ソ連兵の子どもを産ませるわけにはいかないという理由で。
ところが、特攻隊の街として知られる知覧では、戦争に敗れ、進駐してきた米兵に旅館の仲居が性的暴行を受け、生まれた子どもの肌の色が黒かったという。
戦争に勝って進駐してきた米国の兵隊は性暴力で他国の女性に子どもを産ませている。
優生保護思想は持ち合わせていないが、犯罪被害者支援を訴えてきた立場であるから、心神喪失、心神耗弱だからという理由で、罪を問われないのはおかしいという考え方に賛成である。
難しい問題ではある。
2024年07月04日
住宅建築ピンチ 大工職劣悪待遇で成り手減少
NHKクローズアップ現代で「大工不足で家が建たない!?修理できない!?相次ぐ住宅トラブル」を視聴した。日頃から、大工など職人の労働環境について思うことがあったので書いておく
「木造住宅の建築や修理などを担う大工は、この20年で半分以下に減少。人手不足や技術不足によるトラブルは相次ぎ、建築物の調査会社の統計では、診断した住宅の7割以上で不具合が見つかっている。専門家は、大工不足を引き起こす原因には、時代遅れの労働環境や住宅産業構造の変化などがあると指摘する。そうした中、勤務制度や技術継承の方法を改善し、人手不足を解消する取り組みも。住まいも大工も守るために必要なものとは?」と番組の㏋にある。
首都圏の田舎町に生まれ育ち、別の街に住んだことはないので、比較もならないが、住めば都で住環境に不満はなかった。ところが、近年の住宅開発というか、宅造でできあがった建売住宅にはほとんど樹木がないことが不満である。
毎日、健康のために30分から40分程度散歩しているとき、この新築住宅の建築現場を通るのだが、大工などの職人の労働環境が劣悪である。
日曜日だけは休みだが、平日は7時ころまで、そして土曜日も働いているのは工期が限られているからだそうな。
だからか、古家を解体するときは、パキスタンやスリランカなど東南アジア系の労働者が担っている。
解体されて、整地された土地で住宅建築の基礎工事を担っているのも上記の外国人が目立つ。
上棟、新築の木造建築を担う大工は日本人しか見たことはない。
日本は最古だとされている法隆寺が建築された時代から、木造建築が住宅などでは一般的である。
その担い手になり手がいないのは彼らの労働環境が劣悪だからだ。
番組では大手の住宅メーカーが自前で大工職人を育てるべく養成しているところを紹介していた。
NHKの「サラメシ」でも、会社の名前は思い出せないが、自前で職人を養成しているところの職人の卵の昼飯を紹介していた。
大工のなり手がいない理由の第一は、職人としての彼らのおかれている立場にある。
一人親方みたいな形で雇用形態は請負ということになっているはずで、これだと、会社に雇用されていれば、厚生年金、社会保険と会社負担分も含め、将来、年金が支給される。
ところが、請負だと、国民年金、国民健康保険(国保)だから、将来、受け取れる年金額が少ない。
話変わるが、プロレスのジャイアント馬場さんが率いていた会社では、プロレスラーは社員として働けなくなってから厚生年金がもらえるようにしていたそうな。
キラーカーンが証言しているから、事実だと思う。
ところが、馬場さんのライバルだとされていたアントニオ猪木さんが率いていた会社では厚生年金がなかったから、プロレスができなくなってから、生活が大変だというのだ。
大工職は、職業としては非常に立派な手に職ということで、尊敬に値するものだが、若いうちはともかく、無理して働き、体を壊してしまえば、何の保障もないから、これでは、若い人が希望するわけがない。
住宅メーカーは、これから、大手などは、自前の職人を養成するだろうが、神社仏閣などの建築、修理を担う宮大工は養成する機関で技術を身につけることを国がやっていく必要がある。
とにかく、7月の猛暑でも働く職人に対し、もっと温かい目を向け、彼らが安心して働ける労働環境を作っていく必要がある。
岡林信康「山谷ブルース」ではないが、大工がいなければ、新築も修理もできはしない。
「木造住宅の建築や修理などを担う大工は、この20年で半分以下に減少。人手不足や技術不足によるトラブルは相次ぎ、建築物の調査会社の統計では、診断した住宅の7割以上で不具合が見つかっている。専門家は、大工不足を引き起こす原因には、時代遅れの労働環境や住宅産業構造の変化などがあると指摘する。そうした中、勤務制度や技術継承の方法を改善し、人手不足を解消する取り組みも。住まいも大工も守るために必要なものとは?」と番組の㏋にある。
首都圏の田舎町に生まれ育ち、別の街に住んだことはないので、比較もならないが、住めば都で住環境に不満はなかった。ところが、近年の住宅開発というか、宅造でできあがった建売住宅にはほとんど樹木がないことが不満である。
毎日、健康のために30分から40分程度散歩しているとき、この新築住宅の建築現場を通るのだが、大工などの職人の労働環境が劣悪である。
日曜日だけは休みだが、平日は7時ころまで、そして土曜日も働いているのは工期が限られているからだそうな。
だからか、古家を解体するときは、パキスタンやスリランカなど東南アジア系の労働者が担っている。
解体されて、整地された土地で住宅建築の基礎工事を担っているのも上記の外国人が目立つ。
上棟、新築の木造建築を担う大工は日本人しか見たことはない。
日本は最古だとされている法隆寺が建築された時代から、木造建築が住宅などでは一般的である。
その担い手になり手がいないのは彼らの労働環境が劣悪だからだ。
番組では大手の住宅メーカーが自前で大工職人を育てるべく養成しているところを紹介していた。
NHKの「サラメシ」でも、会社の名前は思い出せないが、自前で職人を養成しているところの職人の卵の昼飯を紹介していた。
大工のなり手がいない理由の第一は、職人としての彼らのおかれている立場にある。
一人親方みたいな形で雇用形態は請負ということになっているはずで、これだと、会社に雇用されていれば、厚生年金、社会保険と会社負担分も含め、将来、年金が支給される。
ところが、請負だと、国民年金、国民健康保険(国保)だから、将来、受け取れる年金額が少ない。
話変わるが、プロレスのジャイアント馬場さんが率いていた会社では、プロレスラーは社員として働けなくなってから厚生年金がもらえるようにしていたそうな。
キラーカーンが証言しているから、事実だと思う。
ところが、馬場さんのライバルだとされていたアントニオ猪木さんが率いていた会社では厚生年金がなかったから、プロレスができなくなってから、生活が大変だというのだ。
大工職は、職業としては非常に立派な手に職ということで、尊敬に値するものだが、若いうちはともかく、無理して働き、体を壊してしまえば、何の保障もないから、これでは、若い人が希望するわけがない。
住宅メーカーは、これから、大手などは、自前の職人を養成するだろうが、神社仏閣などの建築、修理を担う宮大工は養成する機関で技術を身につけることを国がやっていく必要がある。
とにかく、7月の猛暑でも働く職人に対し、もっと温かい目を向け、彼らが安心して働ける労働環境を作っていく必要がある。
岡林信康「山谷ブルース」ではないが、大工がいなければ、新築も修理もできはしない。
2024年07月03日
海底の遺骨 トラック諸島で16柱収容
厚生労働省は14〜27日までに、太平洋戦争の激戦地・トラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク州)沖で戦没戦から遺骨収集を行い、24日までに撃沈された「愛国丸」から30年ぶりに遺骨を収容した。戦没船を巡っては、観光ダイバーが遺骨の写真を撮り、SNSで拡散するケースがあったため、厚労省が収容を強化している。現場では24日も遺骨の周りに集まるダイバーが確認された。と6月28日の読売(加藤学記者)が夕刊で伝えている。
「愛国丸」の調査は1994年以来で3度目となる。
水深60bの深さに沈む「愛国丸」。潜水士の躰に強い負荷がかかるため、一人の潜水士ができる作業は1日1回20分以内と短い。
今回の調査では16柱の遺骨が収容された。遺骨の状態は良く、DNA鑑定で身元の特定を進める。
戦時中、トラック諸島には日本海軍の拠点が置かれており、1944年の2月17日〜18日、米空母部隊の攻撃を受けて約40隻の艦船が沈められた。
紙面では、母親の許に届いた手紙を前に、父親の忠三郎さんへの思いを語る遺族の松岡俊郎さん(岡山市)のことが紹介されている。
語り継ぐ戦争で300万人以上の人が戦没、死没したことを知り、その人数分の生と死の物語があったことだろうと推察する。
戦後79年となる2024年も、早や半年が過ぎてしまった。
還暦、古希と節目の年が過ぎ去り、いつ死ぬのかなと思っているうちに後期高齢者になってしまった。
自分の死を迎える意識が高まるにつれ、戦没、死没した人、遺された家族のことが他人事ではなくなっていく。
戦争では、陸、海、空と願うか願わないかに関わらず、軍隊に配属されたりすることで戦争に巻き込まれてしまう。
空と海は陸と較べると、死と隣り合わせだが、陸のように餓死することは少なく、玉砕と美化していたが、集団自決に追い込まれることは少ない。
兵隊ではなく、銃後と呼ばれた内地では、戦況が不利になれば、米軍B29などで空爆、焼夷弾で焦土とされた。
それでも、海に沈められた艦船にとどまっている遺骨はできるだけ収集してやらなければ、国のために戦った人たちが報われない。
A級戦犯が合祀されている靖国神社にばかりお参りしている保守派と呼ばれている連中は、戦没者の遺骨収集も、シベリア抑留者の救済にも冷たい態度だった。
今の平和を築いてくれたのは、戦没、死没なさった先輩方のお陰である。
何としても、遺骨を収集し、故郷、家族の許に帰してやりたい。
「愛国丸」の調査は1994年以来で3度目となる。
水深60bの深さに沈む「愛国丸」。潜水士の躰に強い負荷がかかるため、一人の潜水士ができる作業は1日1回20分以内と短い。
今回の調査では16柱の遺骨が収容された。遺骨の状態は良く、DNA鑑定で身元の特定を進める。
戦時中、トラック諸島には日本海軍の拠点が置かれており、1944年の2月17日〜18日、米空母部隊の攻撃を受けて約40隻の艦船が沈められた。
紙面では、母親の許に届いた手紙を前に、父親の忠三郎さんへの思いを語る遺族の松岡俊郎さん(岡山市)のことが紹介されている。
語り継ぐ戦争で300万人以上の人が戦没、死没したことを知り、その人数分の生と死の物語があったことだろうと推察する。
戦後79年となる2024年も、早や半年が過ぎてしまった。
還暦、古希と節目の年が過ぎ去り、いつ死ぬのかなと思っているうちに後期高齢者になってしまった。
自分の死を迎える意識が高まるにつれ、戦没、死没した人、遺された家族のことが他人事ではなくなっていく。
戦争では、陸、海、空と願うか願わないかに関わらず、軍隊に配属されたりすることで戦争に巻き込まれてしまう。
空と海は陸と較べると、死と隣り合わせだが、陸のように餓死することは少なく、玉砕と美化していたが、集団自決に追い込まれることは少ない。
兵隊ではなく、銃後と呼ばれた内地では、戦況が不利になれば、米軍B29などで空爆、焼夷弾で焦土とされた。
それでも、海に沈められた艦船にとどまっている遺骨はできるだけ収集してやらなければ、国のために戦った人たちが報われない。
A級戦犯が合祀されている靖国神社にばかりお参りしている保守派と呼ばれている連中は、戦没者の遺骨収集も、シベリア抑留者の救済にも冷たい態度だった。
今の平和を築いてくれたのは、戦没、死没なさった先輩方のお陰である。
何としても、遺骨を収集し、故郷、家族の許に帰してやりたい。
2024年07月02日
重大犯罪 国負担で弁護士
殺人や不同意性交など性犯罪の被害者や遺族が原則国の負担で弁護士の支援を受けられる制度の創設が、この4月に改正総合法律支援法が成立して決まった。早い段階から同じ弁護士が着き、助言や手続き代行にあたる。今後詳細な制度設計に入るが、真に被害者の助けとなるには、質の高い弁護士の確保や警察との連携などが肝要となると6月27日の読売(小松夏樹編集委員)が解説の紙面で伝えている。
費用は国の負担だが、「生活の維持が困難となる恐れがある」との条件がある。
警察庁のアンケートでは、加害者との交渉や訴訟にあたり弁護士らに頼んだ人は1・3%に過ぎず、訴訟、交渉をしなかった人は88%に及んだ。33%が手続きがわからなかったことを理由にあげた。
国は、全国各地域での「途切れのない犯罪被害者支援」を打ち出している。
新全国犯罪被害者の会(新あすの会)などは、欧州の制度を参考に、支援施策を一元的に担う被害者庁の設立を求めている。
紙面では2020年5月、長野県で自宅に押し入ってきた男に長女(当時22歳)と次男(同16歳)を殺害された男性(59)のことが取り上げられている。
加害者は自殺し、賠償を求める相手はいない。
ローンのある自宅を出て、エアコンのない部屋に移り、体調不良となった連れ合いの介護をし、自らも体調不良で仕事ができず、弁護士に相談できたのは生活に困窮してからだという。
現実には、誰がいつどこで犯罪被害者、あるいはその遺族になってしまうかわからない。
ところが、人というものは、自分はそうなりたくないという願望から、自分だけは大丈夫だと思い込みたくなるものなのだ。
だから、被害者は一般に支援や加害者対応に明るくない。
被害者に対する一貫支援は、早さと質がカギとなる所以である。
現在、被害者支援の経験や理解のある「精通弁護士」が4000人近く、内、性犯罪被害者が希望することの多い女性は1000人弱いるという。
語り継ぐ戦争をメインに犯罪被害者支援を訴えてきたが、殺人、性暴力犯罪などは自由と尊厳を奪われる重大な犯罪であり、被害者、遺族が受けるダメージは想像をはるかに越える。
誰かの助けがなければ、自分だけではどうすることもできない。
そうなると、支援を一元的にしてもらえるワンストップ支援センターが必要であり、究極は犯罪被害者庁みたいな窓口が設けられる時代がやってくるかもしれない。
費用は国の負担だが、「生活の維持が困難となる恐れがある」との条件がある。
警察庁のアンケートでは、加害者との交渉や訴訟にあたり弁護士らに頼んだ人は1・3%に過ぎず、訴訟、交渉をしなかった人は88%に及んだ。33%が手続きがわからなかったことを理由にあげた。
国は、全国各地域での「途切れのない犯罪被害者支援」を打ち出している。
新全国犯罪被害者の会(新あすの会)などは、欧州の制度を参考に、支援施策を一元的に担う被害者庁の設立を求めている。
紙面では2020年5月、長野県で自宅に押し入ってきた男に長女(当時22歳)と次男(同16歳)を殺害された男性(59)のことが取り上げられている。
加害者は自殺し、賠償を求める相手はいない。
ローンのある自宅を出て、エアコンのない部屋に移り、体調不良となった連れ合いの介護をし、自らも体調不良で仕事ができず、弁護士に相談できたのは生活に困窮してからだという。
現実には、誰がいつどこで犯罪被害者、あるいはその遺族になってしまうかわからない。
ところが、人というものは、自分はそうなりたくないという願望から、自分だけは大丈夫だと思い込みたくなるものなのだ。
だから、被害者は一般に支援や加害者対応に明るくない。
被害者に対する一貫支援は、早さと質がカギとなる所以である。
現在、被害者支援の経験や理解のある「精通弁護士」が4000人近く、内、性犯罪被害者が希望することの多い女性は1000人弱いるという。
語り継ぐ戦争をメインに犯罪被害者支援を訴えてきたが、殺人、性暴力犯罪などは自由と尊厳を奪われる重大な犯罪であり、被害者、遺族が受けるダメージは想像をはるかに越える。
誰かの助けがなければ、自分だけではどうすることもできない。
そうなると、支援を一元的にしてもらえるワンストップ支援センターが必要であり、究極は犯罪被害者庁みたいな窓口が設けられる時代がやってくるかもしれない。
2024年07月01日
松本サリン事件30年 冤罪で謝罪しない県警とメディア
1994年6月27日、オウム真理教教祖で元死刑囚によって起こされた「松本サリン事件」で、警察やメディアは発生当初から第1通報者の河野義行さんを犯人視し、批判を受けた。事件から30年が過ぎた今も、メディアの責任や役割を厳しく問う声がある。と6月3日の朝日のDIGITAL(高木文子記者)が伝えている。
連れ合いの澄子さんがサリンで倒れ、自らもサリンを吸って体調が悪くなり、救急車を呼んだ河野義行さん。
事件当時は、噴霧されたのが猛毒のサリンだとは無論わからなかったことがあったにしても、思想的に河野さんのことを体制側だと思っていなかった長野県警は、河野さんを犯人とするべく第一発見者の河野さんの自宅を家宅捜索したところ、青酸化合物などの薬品が出てきたことから嫌疑を深めた。
警察が河野さんが犯人であるとの見立てで、自分たちに都合の良い情報を流し、そのままたれ流し続けたメディアは、河野さんのことをきちんと取材もせず、犯人扱いを続け、1995年3月20日、オウム真理教の教祖が起こした地下鉄サリン事件で、明確に冤罪だったことが証明されるまで続いた。
連れ合い澄子さんが事件後、意識不明の状態が回復しないまま、14年後の2008年8月、60歳で亡くなるまで、懸命の介護を続けた河野さん。
その後は、鹿児島に移住したことまでは報道で伝えられているが、現在のことは詳しいことはわかっていない。
オウム真理教にとって不都合な存在だった坂本弁護士一家を殺害するように指示したオウム真理教教祖。教祖の指示で、1989年11月、坂本弁護士一家が突然、住居から姿を消したとき、捜査したのは神奈川県警だったが、坂本弁護士が体制側ではなかったことから、真剣に現場検証に取り組むことなく、オウム真理教のバッジが現場に落ちていたにもかかわらず、真剣に事件と向き合わなかった。
さらに、警察は創価学会が政治の世界で自民党と自公政権を構成していることもあって、宗教団体に対し、捜査が及び腰となってきた事実もある。
オウム真理教の教祖によって引き起こされたサリン事件での被害者は気の毒である。殺された被害者、後遺症で苦しみが続く被害者。大事な人を奪われた家族、遺族の苦しみ。さらには、河野さんのようにまるで犯人であるかのように報道をされ続けてたにもかかわらず、捜査員や記者たちはきちんと謝罪したということを耳にしていない。
警察官と記者はこの点厳しく反省すべきである。
捕まったオウム真理教の信者のうち、死刑判決を受けた元死刑囚はすでに刑を執行されたが、偶々、事件に遭遇してしまった人たちの哀しみが30年経っても癒えることがないことに思いやる必要がある。
連れ合いの澄子さんがサリンで倒れ、自らもサリンを吸って体調が悪くなり、救急車を呼んだ河野義行さん。
事件当時は、噴霧されたのが猛毒のサリンだとは無論わからなかったことがあったにしても、思想的に河野さんのことを体制側だと思っていなかった長野県警は、河野さんを犯人とするべく第一発見者の河野さんの自宅を家宅捜索したところ、青酸化合物などの薬品が出てきたことから嫌疑を深めた。
警察が河野さんが犯人であるとの見立てで、自分たちに都合の良い情報を流し、そのままたれ流し続けたメディアは、河野さんのことをきちんと取材もせず、犯人扱いを続け、1995年3月20日、オウム真理教の教祖が起こした地下鉄サリン事件で、明確に冤罪だったことが証明されるまで続いた。
連れ合い澄子さんが事件後、意識不明の状態が回復しないまま、14年後の2008年8月、60歳で亡くなるまで、懸命の介護を続けた河野さん。
その後は、鹿児島に移住したことまでは報道で伝えられているが、現在のことは詳しいことはわかっていない。
オウム真理教にとって不都合な存在だった坂本弁護士一家を殺害するように指示したオウム真理教教祖。教祖の指示で、1989年11月、坂本弁護士一家が突然、住居から姿を消したとき、捜査したのは神奈川県警だったが、坂本弁護士が体制側ではなかったことから、真剣に現場検証に取り組むことなく、オウム真理教のバッジが現場に落ちていたにもかかわらず、真剣に事件と向き合わなかった。
さらに、警察は創価学会が政治の世界で自民党と自公政権を構成していることもあって、宗教団体に対し、捜査が及び腰となってきた事実もある。
オウム真理教の教祖によって引き起こされたサリン事件での被害者は気の毒である。殺された被害者、後遺症で苦しみが続く被害者。大事な人を奪われた家族、遺族の苦しみ。さらには、河野さんのようにまるで犯人であるかのように報道をされ続けてたにもかかわらず、捜査員や記者たちはきちんと謝罪したということを耳にしていない。
警察官と記者はこの点厳しく反省すべきである。
捕まったオウム真理教の信者のうち、死刑判決を受けた元死刑囚はすでに刑を執行されたが、偶々、事件に遭遇してしまった人たちの哀しみが30年経っても癒えることがないことに思いやる必要がある。