語り継ぐ戦争に力を入れている読売が2023年8月、「引き揚げを語る」を連載し、自らの経験を語る読者から反響が寄せられ、不定期に「反響編」として取り上げている。その6月26日は、父親が満州国の経済部に勤めていた千葉県の田口充子さん(84)の母との約束「死んだら書き置いて」である。
1945年8月11日、数日前の8月9日未明、満州にソ連軍が侵攻したことから、疎開の命令が出て、新京(現長春)から、母と6歳の姉、3歳と0歳の妹の計5人で引き揚げが始まった。
新京駅から無蓋車に乗り朝鮮半島方面に向かい。降りたのは国境付近の安東(現丹東)だった。
歩いて南を目指すも、初秋に差し掛かり、朝鮮半島北部の郭山で冬を越すことに。46年3月、末の妹が栄養失調とはしかで息を引き取った。
春も終わり、一行は南下を再開し、38度線を越え、46年7月、仁川港から船に乗り、博多港に着いた。
母は戦争を知らない孫たちのために「私が死んだら、一生を書き置いて」と言い残した。
引き揚げ途上、国境の街安東で無蓋車から降り、そのまま歩いて南を目指したとある。
その安東の街にはソ連軍が侵攻してきて、日本人女性をに性的暴行するということで、安東の湯池子温泉の女中頭だった「お町さん」が人々に請われて「挺身娘子隊」を編成しその総監となりソ連軍駐し来るや慰安慰撫に奮闘司令官の信頼を一身にして日本人の被護活動に挺身した。
わかりやすくいえば、性欲だけで生きているソ連兵の相手をする女性をたちを集め、慰安所を作って接待したことで、ソ連の司令官の信頼を得た。
得た収益で、お町さんは、満蒙開拓団など困窮しながら、引き揚げ途上にある人達を救済したのである。
そのお町さんの許に傷病兵を連れて引き揚げを目指していた三上中尉がやってきて、お町さんの尽力で三上中尉以下の多くが引き揚げることができた。
ソ連軍が安東から出ていくと、街を支配した中共軍(八路軍)によって、お町さんは国府軍のスパイという冤罪で捕まり、銃殺されてしまう。
引き揚げ後、生活が落ち着いた昭和55年9月、三上中尉達は、愛知県の三ヶ根山に「お町さん」の慰霊碑を建立した。
2014年の8月新幹線で日帰りではあったが、豊橋からタクシーで三ヶ根山に行き、「お町さん」の慰霊碑にお参りしている。
無事引き揚げた人たちが自分たちの体験を語るのは結構だが、その陰にお町さんのように日本人引き揚げに尽力してくれた人がいたことを語り継いでもらわなければ困る。
読売は、お町さんのような人たちのことを取材して、書き残すべきである。
自分が生きるだけで精いっぱいだった時、他者のために命をかけてくれたくれた人がいたことを忘れてはならない。