2024年06月10日

飯塚事件 再審認めず 福岡地裁

 福岡県飯塚市で1992年、小学1年の女児2人が殺害された「飯塚事件」で略取誘拐や殺人罪に問われて死刑が確定し、2008年に執行された久間三千年元死刑囚(執行時70歳)の第2次再審請求審で、福岡地裁は5日、裁判のやり直し(再審)を認めない決定を出した。とメディアが伝えている。

 6月5日の読売や毎日新聞によれば、弁護側が「新証拠」として提出した2人の事件当日の目撃証言について、鈴嶋晋一裁判長は「無罪を言い渡すべき明らかな証拠とは認められない。再審請求は理由がない」と述べた。

 死刑執行後に再審開始決定が出た例はなく、地裁の判断が注目されていた。弁護側は決定を不服として10日までに即時抗告する方針。


 事件発生から30年後、2022年4月、「正義の行方〜飯塚事件 30年後の迷宮〜」をNHKが放送し、視聴したとき書いているが、捜査関係者など立場の異なる当事者のそれぞれの証言をもとに三部で構成された内容によれば、確たる証拠がなく死刑を執行された元死刑囚は冤罪だった可能性が高いことを知ることができた。

 「正義が行方不明となっている―」事件というタイトルで書いているが、米国で起きた冤罪での死刑執行事件のことも取り上げ、飯塚事件で死刑を執行したのは国家権力の犯罪ではないかとみている。

 裁判の原則である「疑わしきは罰せず」という高邁な理想を司法関係者は実現すべく、任務に努めてもらいたい。

 冤罪事件に目覚めたのは「名張の毒ぶどう酒事件」で、そのきっかけは東海TVが制作したドキュメンタリー作品を映画化した『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』だった。

 被告人に確たる証拠がない場合、司法が「疑わしきは罰せず」を実現させない以上、市民を守るためにジャーナリストが応援しなければ、被告人だけでは国家権力に立ち向かうことなどできるわけがない。

 東海TVのお陰で冤罪事件に目覚めることができた。
 NHKが放送した「正義の行方〜飯塚事件 30年後の迷宮〜」もまたジャーナリストの矜持みたいなものが伝わってくるような優れた放送だった。

 再審を認めると、すでに死刑を執行してしまった国家権力の立場がなくなってしまうということは理解できる。
 しかし、裁判官も人の子である。
 生まれてきた以上、必ず死ぬ。

 死ぬときに、自分の人生を振り返ることがあるのではないか。
 仮に、自分のことで言えば、穴を掘ってでも入らなければならないほどの出来事などいくらでもある。
 しかし、誰かを陥れるようなことをした覚えはない。
 つまり、死の宣告を受けたとき、冤罪事件で再審請求を認めないような理不尽なことはした覚えがないということ。

 自分は地獄に堕ちるようなことはした覚えがないが、冤罪を訴える元死刑囚を救済しようとしなかった罪は万死にあたり、当然、地獄に堕ちるだろう。裁判官と検察官は。

 再審を認めて、もう一度裁判すればいいだけのことではないか。

2024年06月09日

秋葉原殺傷事件から16年 元死刑囚の友人が保護司に

 東京・秋葉原の歩行者天国で2008年6月、17人が殺傷された事件は8日で発生から16年となった。

 22年7月、死刑が執行された元死刑囚(執行時39歳)の友人大友秀逸さん(47)が2023年秋、保護司になり、罪を犯した人の立ち直りを支えている。と6月7日の読売(尾藤泰平記者)が夕刊で伝えている。

 19年6月にx(旧ツイッタ―)を開設し、事件の遺族から「なんでもっと早く殺してくれなかったんだ」と泣き叫びながら訴えられ、強い処罰感情を感じた。「被害者を減らすために事件を未然に防ぐことができれば」と考え、昨年、犯罪や非行をした人たちの立ち直りを支援する保護司となった。

 同じ紙面で、大津市で5月、その保護司が観察対象の35歳に殺害され加害者が、殺害容疑で逮捕されたことを伝えている。
 1964年以来のことらしい。


 古希を過ぎてから、一日があっという間に過ぎ、後期高齢者を目前にするようになると一層拍車がかかり、時々、時間よ止まれ、止まってくれと言いたくなることがある。
 若いうちはそんなことはなかったような気がするが、お迎えが来るのが早くなるだけだから、覚悟はそれなりにしていても嬉しくはない。
 秋葉原の事件も早や16年経つ。

 語り継ぐ戦争をメインに犯罪被害者支援を訴えて発信しているから、秋葉原無差別殺傷事件に関しても、加害者、被害者双方の立場から大いに関心がある。

 すでに死刑が執行された青年が事件当初、前科もなく、真面目に働いていたことを知り、道連れ殺人と呼ぶような自暴自棄による犯行に至るまでに、どこかで、誰かが相談相手というか孤立させないようにしてやることはできなかったかものかと考えさせられた。

 犯罪学を勉強すると、犯罪者と一括りにしても、様々で立ち直れる人間もいれば、もう生かしておいては社会が成立しないサイコパスのようなのもいる。

 東名高速であおり運転で夫婦を死なせた男などは、後者の典型だろうが、秋葉原の死刑囚は、そもそも家庭環境が原因しているし、警備会社、自動車工場と真面目に働いていたのだから、事件を防ぐことは可能だったと思えてならない。

 一方、被害者学を勉強すると、これだけ道連れ殺人が多発するようになると、歩道を歩くときも、スマホなどいじっていると事件事故に巻き込まれてしまうことを肝に命じるべきだ。

 加害者に寄り添う保護司のことは書いたばかりであるが、その保護司がよりによって観察対象の35歳に殺害されたというのだから、自分たちの味方を殺害してしまうこの加害者こそは、死刑にすべきであるし、塀の外には出してはならない。

 元死刑囚の友人だった男性が後悔と決意を語っていることに他人事とせず、受け止めていることは高く評価したい。

 「未来の事件 防ぐ砦に」「元死刑囚の友人 後悔と決意」と見出しで事件後、16年経ち、道連れ殺人のような理不尽というか、自暴自棄になった者の巻き添えになった被害者のことを考え、自ら保護司を志願し、事件を起こそうとしている、あるいは居場所がなくて、犯罪に走ってしまいそうな人の抑止力たらんとする高邁な精神にエールをおくりたくなった。

 暴発ともいえるような形で、自らの生を終わらせるだけでとどまれば問題はないが、他者が幸せそうに見えたと報道では伝えられたが、秋葉原にいる人間が幸せとは限らないことくらいわかりそうなものであるが、暴走してしまったことが残念でならない。 

2024年06月08日

あぶないところって どんなところ?

 語り継ぐ戦争をメインに犯罪被害者支援を訴えているのは、すべからく「自由のために」である。

 1989年6月4日、隣国の中国で天安門事件が起きた。独裁政権の中国共産党が戦車を出動させ、民主化と自由を求めて立ちはだかる市民を轢き殺すという光景が世界に流れた。

 戦車が女性と子ども、年寄りを轢き殺したのは、1945年8月9日未明、満州に侵攻したソ連軍である。ソ連軍から必死で逃げ惑う満蒙開拓団の人が辿り着いた葛根廟で惨劇は起こった。
 この事実を語り継ぐ戦争で知り、発信してきた。爾来、ソ連、ロシアが大嫌いでこの国が滅亡することを願ってきたし、中国共産党、ついでに言うなら、北朝鮮を三代にわたって支配する金一族などが滅亡することも祈ってきた。

 「自由のために」を実践する場として、女性の自由と尊厳を奪う性暴力犯罪の被害者を支援する東京・強姦救援センターのサポート会員になったことから会報(センターニュース)が送られてくるようになった。

 6月1日発行の98が手許に届いているので、紹介しておく。
 「包括的反差別法がなぜ必要なのか?」というテーマでセンターのアドバイザー弁護士の林陽子さんが寄稿している。
 そこに、世界人権宣言が採択されてから2024年で76年目を迎える。宣言の中核には「人は皆、生まれながらにして自由であり、尊厳と権利について平等である」その上で、「平等」すなわち「差別を受けない」権利こそがあらゆる人権の基底にあり、その理念こそが国際人権条約として成文化されてきた歴史がある。と書かれていることを取り上げておきたかった。

 「自由のために」書き続けてきた自分の主張は世界人権宣言の中核をなしていることとは知らなかったが、とにかく自由が大事だとは常々考えていることだ。

 身近で自由を奪われるのが犯罪被害者だから、犯罪被害者支援を訴えてきたが、会報に同封されたチラシに6月29日のpⅯ13時30分から港区芝浦のリープラ学習室で「みんなで防犯 あぶないところってどんなところ?」をテーマに学習会が開催されるとあった。
 講師は防犯デザイン研究所代表西拓哉さんである。

 自分も参加を呼び掛けられているが、行かれるかどうかわからない。一応関心がある向きに紹介しておく。


 犯罪に関して、大学では犯罪学(刑事政策と呼んでいることもある)、被害者学と呼んで学問として研究したり、学ぶ学生がいる。

 犯罪被害者支援を訴えて発信してきたくらいだから、街を歩いていて、あぶないところってすぐにわかるし、
 近年、ストーカーなどに殺害されてしまった女性の事件を知り、犯罪被害者になりやすい人と、なりにくい人がいるのではないかと自分なりに考えている。
 犯罪加害者に目を向ければ、無職の人間は犯罪予備軍みたいな人が少なくないことも理解している。
 一番怖い加害者は道連れ殺人犯で、自分の思い通りにならないと女性を殺害して、自分も死ぬという輩ではないか。

 防犯のための勉強会が開催されるということはあまり耳にしたことがないが、大事なことで、こうした啓発活動が間違いなく犯罪の被害者を減らしていくことにつながるはずだ。

 会報には2023年の電話相談件数やセンターの会計報告もあったが、性暴力被害者になった女性が未だにどこに相談したらいいかわからないということをコメントしているのを知り、せっかくの支援だから、もっとこうした機関の存在ネットワークが広く知られるようにしていく必要があるだろう。

2024年06月07日

里山と世界の乾燥地で進む砂漠化

 明星大学(日野市)と読売新聞立川支局が共催する連続市民講座「わたしたちの多摩」の第2回が25日、同大日野校で開かれた。柳川亜季准教授が「多摩の里山を楽しむ ―『里山なんて…』から始まった私の旅」と題して、世界の乾燥地で進む砂漠化の問題、日本や多摩地域での里山について講義し、501人が参加した。と5月29日の読売が伝えている。

 「SATOYAMA」は、生物多様性の保全と人間の福利向上のために、日本の里山のように、人間が周囲の自然に寄り添いながら農林漁業などを通じて形成されてきた二次的自然地域を指す。

 地球の表面の約3割弱が陸だが、そのうち最も多いのは乾燥地であり、乾燥地の劣化、砂漠化が進んでいる。
 日本の食料自給率は4割を下回り、多くを輸入に頼っているが、これが意味するところは、輸入先の国の資源を間接的に消費しているということだ。水資源だけで、日本人1人当たり約1000リットルの海外の水を毎日消費している。このように、私たちの暮らしと乾燥地で進む砂漠化は関係している。

 このような問題意識から、モンゴルでの調査をしてきたが、遊牧と呼ばれる放牧システムが長期にわたり営まれてきたが、食の多様化で、野菜の需要が高まり、耕作地が増加し、砂漠化している。周りの自然の草原では風食を防ぎ、不毛の耕作地からの飛砂を捕捉している。
 
 日本の年間降水量は世界平均の約2倍の1700ミリだが、 急峻な地形のため、河川の水はすぐに海に流出してしまい利用可能な水資源量が限られる。また、日本は火山列島であり、特に関東では火山灰が降り積もっている。
 このような恵まれない水・土壌環境において、日本では、水路や田畑を整備し、水路を使って、し尿を効率よく回収、散布し、持続的な農業を営んでいた。
 しかも、先人たちは住まいの近くに里山を作り、燃料のため薪炭林としてコナラやクヌギ林を設けた。
 こうして命をつないできたが、その里山の景観が都市開発で失われてていく。

 以上が概要である。


 ご先祖のお陰で狭い面積ながらも、有機無農薬での循環型農業を実践しているので、環境問題には非常に敏感である。
 明星大学の柳川亜季准教授の話で心を揺さぶられたのはモンゴルの遊牧民が生産性の低い草原を持続的に使うため、季節ごとに放牧の場所を移動する遊牧システムを発達させてきたことで、国土の砂漠化が防げたことはまさに先人の知恵だということ。
 ところが、食の多様化で野菜を作るために耕作地が増えると皮肉なことに砂漠化するというのだ。

 さらに、食料自給率が4割を下回る日本では輸入先の国の資源を間接的に消費しているという見方である。
 私たちの暮しと乾燥地で進む砂漠化は関係しているというのだが、そんな意識は持ったことがなかった。

 先人の知恵には恐れ入った。
 標高の高いところにため池を作り、そこから水路を下方に延ばし、水田に水を送りながら、低い所には畑を配置。水田は洪水時には自然のダム機能を発揮するし、灌水時には土壌の養分分解速度を低下させる。

 乾燥地アフガンで医師でありながら、灌漑用水を敷設した中村哲先生は恩を仇で返した馬鹿なテロリストに殺害されてしまったが、目の付け所は素晴らしい。
 水がなければ、作物は育たないからだ。

 里山で燃料の炭を作ったことも特筆される。
 「ポツンと一軒家」を視聴し、ご先祖から引き継いだからと言って、当代が自給自足に近い生活で守っている姿にいつも感動してきた。

 食料自給率にしても、他国における資源を日本が食料を輸入することで、食いつぶしていると考えれば、自給率を上げることをもっと真剣に考えていく必要があるのではないか。

 里山の有難みを考えたことがあまりなかったような気がする。
 住環境を考えるとき、樹木がどれほどあるかということが価値になることは気づいていた。
 都市部における農地も意外と重要になってくるのではないか。
posted by 遥か at 09:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境問題・公害問題

2024年06月06日

白浜三段壁で最後のSOS いのちの電話 25年の牧師

 階段状の岩壁(高さ約50メートル)に白いしぶきが舞い上がる。国指定名勝の三段壁(和歌山県白浜町)は、人生に行き詰まった人がたどり着く場でもある。

 三段壁の看板には「重大な決断をするまえに一度是非ご相談ください」との言葉と、藤藪庸一牧師が理事長を務めるNPO法人「白浜レスキューネットワーク」に24時間つながる電話番号が記されている。スマホや財布を持っていない人のため、電話ボックスにはテレホンカードと10円玉が置かれている。

 白浜バプテスト基督教会牧師・藤藪庸一(51)さん。藤藪さんが理事長を務めるNPO法人「白浜レスキューネットワーク」が三段壁に辿り着いた人からの「いのちの電話」として続ける取り組みだ。藤藪が携わって2024年4月で四半世紀。1000人以上の命と向き合ってきた。と6月3日の読売(古賀愛子、平野真由記者)が夕刊で伝えている。

 白浜出身の藤藪さんは1999年、26歳の時に前任の牧師が始めた「いのちの電話」を引き継いだ。
 「人と関わるのに必要なのは覚悟です」と話す藤藪さん。
 「誰しもちょっとしたきっかけで気持ちが落ち込む。一度死にたいと思ったら、何かの拍子に、またその気持ちが過ってしまう。三段壁で出会った人に対し、最善を尽くしたい」という。

 国内の自殺者数は2003年の3万4427人をピークに減少傾向にあったが、コロナ禍の20年に11年ぶりに増加した。緊急事態宣言などで人と人との接触を減らすことが求められ、社会不安も相まって、孤立や孤独を感じる人が増えたとみられる。23年は2万1837人となった。


 偶然ではあるが、昨日6月5日、無縁遺体の引き取り手が減っているということを書いた。
 生きているうちに手を打つことはできるが、だからと言って、自分がすぐ死ぬとは誰も思っていないので、準備できている人など数少ないだろう。
 行政が相談に乗ってくれているところがあるにしても、死んだ後のことなど考えたくもないという人は、税金で合祀するしかないとは自分の考えである。
 行旅死亡というのがあって、こちらは図書館に置いてある官報に載る。
 自分は一時期、毎日のように官報の行旅死亡欄をチェックしたことがあるが、無常というのか大いに勉強になった。
 文字通り、自殺者などがこれにあたるが、読売が取り上げていた無縁遺体は、アパートなどで独居の人が死に、縁者に連絡しても引き取りを拒否され、自治体が困っているということだ。

 これに対し、白浜の三段壁の「いのちの電話」で自殺者に死ぬことを思いとどまらせてきた藤藪牧師の活動は自殺して行旅死亡とならないようにということだから、自殺者の最後のセーフティーネットの役割を果たしてきた。 
 以前、書いたことがあったはずであるが、キリスト教の牧師というのは世のため、人のためになることをやってくれている。偉い。

 2023年の春、親族の30代の青年が自殺してしまったことを書いたが、身近に藤藪さんみたいな人がいてくれれば、彼も死なないで済んだかもしれない。と思えば、藤藪さんの活動が如何に優れたものであるか理解できる。

 自分から死ぬことはないのである。人間は。
 死にたくなくとも、お迎えが来れば、死ななければならない、

2024年06月05日

「無縁遺体」 引き取り拒否 5年間で3割増し

 死後に引き取り手がない「無縁遺体」の取り扱い人数について、読売新聞が政令市と道府県庁所在市、東京23区の計74市区にアンケートを実施したところ、計69市区で2022年度までの5年間に3割増加していたことがわかった。国内死者数の増加率を上回るペースで、背景には独居高齢者の増加や親類の引き取り拒否が広がっていることがある。厚生労働省は近く、実態調査に着手する。と6月3日の1面で伝えている。

 孤独死で身元がわからない、または身元がはっきりしていても引き取り手がない「無縁遺体」は、死亡地の市区町村が、墓地埋葬法や行旅法、生活保護法に基づき、火葬・埋葬する。

 増加の理由については、「独居の高齢者世帯が増え、社会や家族の在り方が多様化している」(京都市)、「親族に連絡がついても遺体や遺骨の引き取りを拒否される」(東京都中央区)を挙げる自治体が多かった。


 身寄りもなく社会から孤立して生きる人が増えている現象を無縁社会と呼び、NHKが放送したことを思い出した。
 日本の社会を構成していた家父長制の家族なんてとっくの昔に姿を消し、あるとすれば、地方の田舎にあるかもしれないくらいとなり、両親がいて子どもがいるという一般的な家族という形も少なくなりつつある。

 TVで長く放送されている刑事ドラマ『相棒』で、放送された作品中の名作だと評価の高い「ボーダーライン」では、失業して家賃を支払えず住むところを失い、身寄りはいても頼れず、就職もできず、生活保護の申請に行っても体よく追い払われ、犯罪に巻き込まれた孤独な青年が社会に怨嗟の目を向け殺人に見せかけて、自殺するというストーリーだった。

 生活保護のことが書かれているというので久田恵『ケースワーカーと呼ばれる人々 ニッポン貧困最前線』(文春文庫)を買い求めて読んだことがあるし、調べたことがあるので生活保護の実態も少しは知っている。

 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚では全国の慰霊碑を訪ねてお参りしてきたが、縁者がいない無縁仏には手を合わさずにはいられなかった。
 併せて、遊女、女郎と呼ばれた女性たちの供養をしてきたので、こちらも無縁仏となっている女性の方がほとんどである。

 例えば、地方の田舎から大都会東京にやってきて、アパートや団地で一人住まいで高齢となった場合、生活保護を受給していれば、部屋で死ねば孤独死ではあるが、ケースワーカーが親族に連絡し、埋葬、遺骨を引き取ってもらうことになるが、ケースワーカーがついていない、つまり生活保護を受けていなければ、こちらも役所の福祉の職員が親族に連絡し、遺体の引き取りを求める。
 引き取りを拒否された場合、福祉が提携している葬祭会社に頼んで合祀してもらうこともあるようだ。

 家族とはいうものの、親、兄弟姉妹が生きているうちは遺体の引き取りを拒否することは少ないだろうが、甥、姪の時代になれば、遺体の引き取りを拒否することの方が圧倒的に多いのではないか。
 時の流れで、血縁関係も薄れていくのだ。

 これから、間違いなく増えるであろう無縁遺体。どうすればいいのか。
 行政が本気になって対策をすればいいのである。
 葬祭会社、霊園などと提携し合祀すればいいだけのことである。

 実家を継いだ兄、つまり自分の叔父と関係がうまくなかった叔母。子どもがいなかった叔母が先年亡くなり、叔母の弟が最後面倒をみていたので、墓所の場所は聞いていた。
 長いことコロナ禍で行かれなかったが、関内駅の近くの葬祭ビルにある納骨堂というかスペースに預けられているというので、先般、ようやくお参りに行ってきた。
 写メを連れ合いに取ってもらい、自分の姉に送ったところ、大変喜ばれた。
 姉曰く「あんたたちが代表してお参りしてくれてありがとう」とのことだった。
 姉にとっても、叔母だから気にしていたみたいで、なかなかお参りに行かれないので、安心したようである。
 ということで、わが家はまだ家族としての形が成り立っているということなのかもしれない。

 死ねばみな一緒であるが。自分が死んだら墓参りだけはしてくれとは連れ合いへの自分の口癖である。

2024年06月04日

後期高齢者のドクター・コトーこと平谷一人医師

 NHKスペシャル「せんせい!おかげで生きとられるわ 〜海辺の診療所 いのちの記録〜」を全部ではないが視聴することができたので書いておく。

 「三重県・熊野灘に面した二木島町は、住民200人の7割が65歳以上と超高齢社会を先取りする町。お年寄りたちが頼りにするのが地区唯一の診療所の“せんせい”こと平谷一人医師、75歳。診療所の2階に妻と暮らして25年になる。にぎやかな診察室や、最期の時を支える往診など、いのちと向き合う日々を4年間に渡り記録。先生と町の人々との関係は、人がおだやかに“生”を全うするとはどういうことか、静かに語りかけてくる。」と番組の㏋にある。


 平谷一人医師は75歳。所謂後期高齢者である。団塊の世代の一員である自分と同世代であるが、熊野灘に面した街の診療所熊野市立荒坂診療所で看護師2人、事務1人のスタッフで住民の診療にあたっている。
 診療所の2階には、「意味性認知症」を患う連れ合いがいて、診療が終わると、料理ができなくなっている連れ合いの分と2人分の食事を用意し、洗濯をし、老々介護をするという大変な生活を送っている。
 住民たちは貧しいからか、介護施設に入所する人は少ないようで、自宅で介護する人が多い。

 時間がなくて、最後まで視聴することは叶わなかったが、不整脈が出て、入院することになった平谷医師は連れ合いを施設に入所させることにしたらしい。

 介護の形を問われた平谷医師は家族もそれぞれだから、自宅、施設それぞれの家族の都合で対応すればいいのではないかと応えていた。

 聞くところによれば、熊野市の出身で九州の大学で学び、九州の病院で勤務していたらしいが、診療所勤続25年だというから50歳のとき、乞われて戻ってきたということのようだ。

 僻地の医師といえば、TVと映画の影響からか、すぐにドクターコトーを思い浮かべてしまう。
 普通医師といえば、診療科目が明らかにされていて、内科とか外科などと表記されていることが一般的である。
 ところが、ここの診療所では、高齢者がほとんどとはいうものの、患者は内科ばかりとは限らない。総合診療というのか、とりあえず診てもらえる。ドクターコトーは手術でもなんでもやってしまう所謂スーパーマンのような医師だった。

 荒坂診療所では、手に負えない患者は当然、県内の病院にということになるのだろうが、ここの診療所は患者の多くが高齢者だから、介護と看取りという分野の医療が大事になってくる。

 看取りといえば、在宅で或いは施設でということになろうが、いずれにせよ、後期高齢者ともなれば、他人事ではない。

 死ぬときは一人とはいうものの、連れ合いには日頃から、死ぬときは二人だけで手を握って看取ってほしいとお願いしているが、「一緒には行かないから、先に行っててね!」とは連れ合いの言葉である。

 延命治療など考えてもいないが、苦しくないようにしてもらいたいとは思っている。
 医師って、有り難い存在だとつくづく思った。

2024年06月03日

臓器移植 相次ぐ断念 問題の背景と対策

 時の問題となっている事象について有識者が論じる読売の連載「論点スペシャル」、5月30日は「臓器移植 相次ぐ断念」をテーマにグリーンリボン推進協会理事長大久保通方さん、東京大学病院長田中栄さん、米テンプル大学教授重村周文さんに影本菜穂子記者が問題の背景と対策について聞いている。

 「待機患者に大きな不利益」、「受け入れるほど負担増す」、「米国の病院『最優先』浸透」というそれぞれの立場からの考えを見出しの内容で語っている。

 自身妹からの生体臓器移植を受けた大久保さんは、臓器移植手術を東京大学など3大学病院で、人員や病床などが不足し臓器の受け入れを断念する例が相次いでいることに危機感を抱き「国は早急に3大学以外の施設の実態も把握し、対策を示してほしい。ドナーの臓器を移植を待つ患者に公平に届ける仕組みを盤石にすることは移植医療の推進に欠かせない国民の信頼と理解にもつながる。」という。

 医療現場の声を訴えられる立場にある田中さんは移植手術を担う大学病院に収益を確保できる仕組みの検討が求められる。移植に携わる人材の教育拠点を設け、各地の医師や看護師らが専門技術を身につければ、地方の患者の負担も減る。臓器移植に生きる望みを託した患者に、必要な医療を提供していくことは病院の重要な使命だ。と訴える。

 米国で肺移植手術の経験を積んだ重村さんは、米国ではドナーから患者へと命をつなぐ移植医療の重要性が社会に浸透していることを米国で暮らして痛感したそうな。その上で、「国は、見送り問題の解決が、移植医療を発展させるチャンスになると受け止め、米国など移植先進国の対策も踏まえ、強いリーダーシップでこの危機を乗り切ってほしい。と願っているとのこと。


 語り継ぐ戦争だから、戦時中日本の軍人たち程若者の命を軽視した人はいないというのが自分の認識である。
 各種特攻作戦が一番わかりやすい例としてあげられる。
 飛行機に爆弾を搭載し、突撃する陸海軍の神風特攻隊、魚雷に人間が乗る人間魚雷「回天」、爆弾と共に突っ込む人間爆弾「桜花」、モーターボートのような船に爆弾を積んで突撃する「震洋」とよくも、こんな兵器を作り出したものだと呆れるほどの人命軽視が行われてきた。

 さらに、旧優生保護法のもとで不妊手術を強制された人たちが国に賠償を求める裁判が行われているが、優生保護という名前でわかるとおり、差別思想の下に行われたことであるが、ハンセン病患者のドキュメンタリー映画『かづゑ的』では感染するからということで、子どもを持てなかったことが伝えられた。

 つまり、米国でドナーから患者へと命をつなぐ移植医療の重要性が社会に浸透していることと較べ、日本は根底に命を大事にする発想が低かった。
 戦時中の、「産めよ増やせよ」という戦闘要員を増やすというイスラムのISのようなことが戦時中の日本では軍人たちから命じられていた。

 命を粗末にする旧日本軍の考え方は、敗戦で日本からなくなったはずだが、一時期自殺者が年間3万人を超えていたことが続いたことで、さほど変わっていないな日本はと思わざるをえない。

 ドナーから患者へと命をつなぐ移植医療の重要性が米国では社会に浸透している由だが、日本だって、教育とメディアでの宣伝、洗脳でまねをすることは可能である。

 脳死者から提供された臓器の移植手術で、 救える命があるのだから、臓器移植がドナーの提供とは別な形で断念されることが相次ぐのは極めて残念なことだ。

 新自由主義社会では、ブラック企業を筆頭に働く人たちに対し、代わりはいくらでもいるという論理で元受け、あるいは強い立場の人間が跋扈している。

 生きているだけで価値があると言っているのはれいわ新選組代表の山本太郎代表である。
 かけがえのない命を大事にするということは実は一番大事なことではないか。 

2024年06月02日

「司法は直ちに再審開始をアピール行動」

 「えん罪・名張毒ぶどう酒事件・東京の会 ニュース」の5月22日発行分が手許に届いている。
 TVや新聞などマスメディアが取り扱ったかどうかわからないが、最高裁で闘う冤罪5事件(名張事件、大崎事件、日野町事件、三鷹事件、豊川幼児殺人事件)の支援者が共同して、3月3日、JR新宿駅東南口で「司法は直ちに再審開始をアピール行動」と題して宣伝活動を行った。参加者は120名以上。との報告があった。

 名張事件は発生から63年。冤罪を獄中から訴え続けてきた奥西勝さんは八王子の医療刑務所で亡くなった。第10次再審請求は認められなかったが、最高裁で5人の裁判官のうち学者出身の宇賀克也裁判官は「封かん紙に異なるのりの成分が付いているとした鑑定結果は高い信用性があり、犯人性に合理的な疑いが生じる。自白の信用性にも多大な疑問が生じる」として、再審を開始すべきだとする反対意見を述べた。 
 10回にわたる「名張毒ぶどう酒事件」の再審請求で、最高裁判所の裁判官が再審を開始すべきだとする反対意見を付けたのは初めてのことだ。と1月30日NHKが伝えていた
 再審開始に向けては一歩前進である。

 意思を引き継ぐ妹の岡美代子さんは94歳となっており、もう、時間がないということで、弁護団は第11次再審請求をするべく、名古屋高裁への署名が同封されていたので、連れ合いにもお願いして署名し、事務局に送った。

 3月28日の大須観音での宣伝行動で、5都府県110名を集めアピール行動を行ったとのこと。 
 参加者一同 シュプレヒコール。
 「司法は白鳥決定を守れ」「検察の証拠隠しを許すな」「名古屋高裁は誤判を正せ」「岡さんの生きているうちに再審開始せよ」などと気勢をあげたことも報告されている。


 奥西さんが本件を犯したと認めるには合理的な疑いが生じ、また、事件本人の自白の信用性にも多大な疑問が生ずるのであり、確定判決の有罪認定には合理的な疑いが生じている」よって、再審を開始すべきである。と1月29日の最高裁第3小法廷で最高裁の宇賀克也裁判官は5人の裁判官の中でただひとり反対意見を述べている。

 10次にわたる再審開始請求で初めてのことである。

 自民党の裏金、脱税問題で検察には法の下の平等はなく、正義もなく、ただ、権力者のために働く機関であることが証明された。
 自白の信用性は広島の衆議院選挙の買収問題で、自白が如何に出鱈目であったか証明された。

 検察は証拠を平気で隠すし、検事は自白も自分たちの描いた筋書きのとおり平気で誘導する。
 宇賀克也裁判官だけが事実関係を冷静に見つめ、正しい判断をしてくれたことは歴史に残る快挙である。

 他の裁判官は己の仕事に恥ずべきことがあるかどうか自ら検証すべきだ。

 人間は誰でも生まれた以上必ず死ぬ。
 裁判官を務めるということは大変な激務であり、人の一生を左右する重大な仕事である。

 裁判官が冤罪の片棒を担ぐようなことがあっては、死んであの世に行くとき、過去を振り返り、自信をもって、正しいことをしたと言えるのか。

 冤罪の片棒を担いだ裁判官は極楽浄土には行かれないだろう。
 第11次再審開始請求は裁判官にとっても最後のチャンスである。
 過ちを正さず、知らん顔はできないだろう。死ぬときに悔やんでも遅い。

2024年06月01日

新潟水俣病公式確認59年 教訓伝える式典

 新潟水俣病の公式確認から59年を迎えた31日、新潟市で県主催の式典が開かれた。出席した被害者や原因企業、環境省、自治体の関係者ら約100人は、次世代に教訓を伝えていくことを誓った。国定勇人・環境政務官は、熊本県の水俣病被害者らに対する同省の対応について陳謝した。と6月1日の読売が伝えている。

 式典「新潟水俣病の歴史と教訓を伝えるつどい」の冒頭、出席者らは1分間黙とうし、亡くなった被害者に祈りをささげた。
 新潟水俣病阿賀野患者会の曽我浩会長代行(76)は「水俣病をどう語り次いでいくか、高齢化した被害者にとって大きな問題だ。今日のつどいを機に、ぜひ検討してほしい」と訴えた。

 式典後、会場となった同市北区の「県立環境と人間のふれあい館(新潟水俣病資料館)」の近くで、患者・被害者団体などと国定氏の懇談が行われた。

 団体側は、新潟水俣病の発生当時に魚を多食していたことや現在の症状、差別や偏見に苦しんできたことを説明し、早期解決を訴えた。

 同会の皆川栄一副会長(80)は「解決が遅れれば遅れるほど(高齢の)被害者は亡くなっていく。私たちには時間がない」と語気を強め、「一日でも早い解決を望んでいる。私たちの切なる思いをどうか環境相に届けていただきたい」と訴えた。


 熊本の水俣で未処理のまま海に流された工場排水から発生した有機水銀中毒だから水俣病と呼ばれ、水俣条約に名前が使われたことから、今や有機水銀中毒の代名詞みたいになっている水俣病。
 新潟でも、阿賀野川流域で同じ症状で患者が苦しみを訴えたことから、水俣病に地域の名前を冠して新潟水俣病と呼ばれている。
 両者ともに工場排水に含まれた有機水銀に汚染された魚を食した人々が苦しめられた公害病であり、地域住民から差別されたこともまた共通している。

 水俣病は母親が有機水銀に汚染された魚を食していれば、胎児もまた胎児性水俣病として、生まれながらに重き荷を背負わされたかのような苦しみが死ぬまで続くという怖ろしさである。

 水俣病の公式確認が1956年5月1日ということで、連れ合いが生まれてすぐのことだから、あまりにも気の毒だと水俣に行き、犠牲者の慰霊碑にお参りしている。

 一方、新潟は連れ合いの両親が妙高の出身ということもあって、30代の頃に車で新潟に行っているが、この頃、新潟水俣病のことはほとんど知らなくて観光しただけだった。
 
 後に、連れ合いの両親の故郷には2回車で行っているが、この時もまた新潟水俣病のことは頭を過ることはなかった。

 新潟水俣病は佐藤真監督『阿賀に生きる』をリバイバル上映で観て知ることになる。
 新潟でも阿賀野川流域で水俣病があったくらいのことは、一般常識程度には知っていたが、映画では新潟水俣病を声高に告発するようなことはなかったが、もともと、雪国の人は我慢強く、寡黙な人が多いという印象だったから、じっと耐えてきたのだろうと推察したことを覚えている。

 熊本は連れ合いの箏の仲間の一人で近しくして頂いている女性が熊本出身だったこと。新潟は連れ合いの両親の故郷ということで、都道府県の中でも、親しみを持って訪れてもいる土地である。

 その水俣病がまだ、完全に決着していないのは政府の怠慢以外の何物でもない。
 これほどまでに苦しめられてきた上に、環境省のお役人に手ひどい仕打ちを受けたことで、怒り心頭である。

 とにかく、水俣病に苦しめられてきた人たち全員の救済が急がれる。
 水俣病患者は一つも悪くない。
 何とか救済できるように願っている。
posted by 遥か at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境問題・公害問題