国策として満洲(現中国東北部)に送り込まれた農業移民たち満蒙開拓団。かつて、豊かな暮らしを夢見て渡ったが、終戦前後の混乱で苦難に見舞われた。
福島県の農家の三男である父の茂さんと身重の母マサノさんが開拓団に参加し、1941年現地で生まれた川崎市の田中則子さん(83)は引き揚げのときの母親の苦しみを感じ、心を痛める。
2023年8月の連載を読み、当時の体験を寄せた。と5月30日の読売がくらしの紙面で、(山田朋代記者)が伝えている。
45年8月9日未明、ソ連軍の満州侵攻で開拓団は大混乱に陥った。男性たちは徴兵でおらず、残っていたのは女性や子ども、高齢者ばかり。ソ連兵らに衣類や布団、家事道具の一切を奪われた。現地住民に殺される人もいた。
ある時、熱病にかかった母に「喉が渇いた」と言われ、水を汲みに外に出て戻ると、家にソ連兵がおり、着物をはがされた母、泣きわめく弟がいた。「何が起こったのか。母もそのことは語ろうとはしません」という記憶も残っている。
45年秋、何とか母子3人で開拓団の引き揚げに同行することができたが、満州北部からの道のりは簡単ではなかった。食べ物も水もなく、土ぼこりの道を黙々と歩き続け、夜は高粱畑に身を潜めた。
「『腹減った、歩きたくない』と泣かれるのがつらかった」と母。
「父親に子渡さず死ねない」という執念で何とか引き揚げすることができたと母。
貨物列車に揺られた後、やっと大きな船に乗り込んだが、毎日誰かが病気や飢えで倒れた。
満州からの引き揚げといえば、必ずソ連兵からの開拓民などの女性に対するあまりにも酷い性暴力のことが語り継がれてきた。
性暴力被害を目撃した話は数えきれないほどだが、自らが性暴力を受けたという証言は少ない。
今回の証言では、母親が語らなかったというソ連兵によって、着物をはがされた母親と泣きわめく弟というシチュエーションで十分想像できることだが、女性は、母は本当に強い。
満洲からの引き揚げ経験を持つ俳優宝田明さんも子どもの頃、ソ連兵がやってきて鉄砲で撃たれたことや母親の所にソ連兵がやってきたときのシチュエーションで母親は何も語らなかったが、被害があったかもしれないことを想像させる証言をしていた。
田中さんの母親は52歳のとき、脳梗塞で倒れて半身まひになり、82歳で亡くなった。
母親が亡くなった年齢に達した田中さんは、自分と弟を連れて引き揚げてくれた偉大な母親の気持ちを思料する。
飢えや誰も頼ることが出出来なかった辛さを思うのだ。
引き揚げ後の生活も苦しかった。教科書も辞書も買えず、「惨めだった」と振り返る。
国は全く信用できない。軍隊もまた同じことで、全く自分たちを守ってはくれなかった。
一番大事なことは、政府は平気で国民を騙す。軍隊は自分たちは武器を持っているくせに開拓団を守ろうとはしなかったということ。
母は強い。
歯はタイの苦労を思えば、戦争に巻き込まれてはならない。