2024年05月12日

「死の貝」日本住血吸虫症との闘い

 かつて山梨の農民らを悩ませた感染症「日本住血吸虫症」の歴史をたどる小林照幸さん(56)のノンフィクション「死の貝」が、新潮社から文庫で復刊された。1998年の単行本が絶版となった後、インターネット上で「感染症との闘いを伝える圧巻の作品」と再注目されていた。と5月7日の読売が夕刊で伝えている。

 「その地域に嫁ぐ時には『棺おけを背負って』と言われるほど恐れられた病。日本の医学者たちが、病原体発見から予防、治療法を世界に先駆けて作ったと知り、関心を持った」。大宅壮一ノンフィクション賞の受賞歴もあるベテランの著者、小林さんは振り返る。

 日本住血吸虫症は、水田などで寄生虫の卵が孵化し、大きさ1センチに満たない貝「ミヤイリガイ」に寄生する。寄生した幼虫が皮膚から侵入し、体内の栄養を吸い取って、繁殖を続ける。山梨県の甲府盆地では古来、農民を中心に悩まされ、江戸時代の文献にも記述があるという。

 ミヤイリガイは水がないと生きられないため、山梨県では生産作物を米や麦から果樹へと転換した。「フルーツ王国になるきっかけにもなった」という。


 子どもの頃、社会科で耳にしたのであろうか、日本住血吸虫症と「ミヤイリガイ」のことは知っていた。
 ただし、山梨県甲府盆地で古来、農民を中心に悩まされていたことは失念したのか、全く覚えていない。

 「その地域に嫁ぐときは『棺桶を背負って』と言われるほど恐れられていた病だと知り、びっくりである。
 1881年に地域から原因究明を求める嘆願書が出され、1996年の「終息宣言」まで「医師、行政、地域住民の三位一体の努力があったそうな。
 待てよ、1996年といえば、30年くらい前まではまだあったのかと知って驚く。

 首都圏の田舎町に生まれ育ったから、自分は田舎者であるが、生まれた街よりさらに辺鄙な地域にあった親族の家に子どもの頃遊びに行ったとき、周囲の高台は里山というか樹林地で、低地には田んぼがあり、幹線道路沿いには用水が流れていて、親族の家の近くには湧水が流れ出ていた。
 この地域の田んぼなどではタニシが採れ、食べられると耳にしたが、自分の親が「タニシは危ないから食べるな!」と言われたことを思い出した。
 たぶん、親は日本住血吸虫症のことを知っていたのではないか。
 それほど恐れられていたのではないか。
 結果、タニシは食したことがない。
 お断りしておくが、タニシは食べられるし、タニシにけちをつけているわけではなく、貝類は寄生虫の心配があると親が言っていただけのことである。

 山梨でコメ生産が盛んだということを耳にしたことがなく、フルーツ王国で、山梨といえば、ブドウに桃の産地だということはあまりにも有名だが、まさか、日本住血吸虫症という感染症を媒介するミヤイリガイを根絶するため、水田をつぶして、果樹園にしたからだとは思わなかった。

 水俣病を根絶しようと不知火の海を浚い、ヘドロを取り出し、埋め立てして海浜公園にしたことと似ている。

 小林照幸さんが書いた『死の貝』を通して、感染症の怖ろしさをコロナ禍を生きてきた者の一人としては知っておく必要があると痛感した。

 小林さんは佳い仕事をされた。エールをおくりたい。