アジア太平洋戦争にきちんと向き合っている読売が戦争と平和を考えるとして、「引き揚げを語る」というタイトルで2023年8月連載したところ、その反響があり、自らの体験が寄せられているということで、随時掲載している。
その5月8日は川崎市の内海一江さん(89)が国民学校5年だった10歳の時、1945(昭和20)年の秋のこと、朝鮮半島南部釜山の西方麗水の港から密航船で引き揚げた体験だった。
女性と子どもばかりの約30人が乗りこんだ小型船は荷物運搬用で、荷物を縛る縄が転がった船底には50人ほどの日本人が身を寄せた。
「電気を消せ」と言われ、朝鮮人の船から追われていることを知った。速度を上げ、何とか振り切ったが次第に海が荒れだした。「山のてっぺんに押し上げられたかと思うと谷底に突き落とされたかのようだった」と荒れ狂う大海原での恐怖の様子が伝えられている。
唐津の港に着き、汽車を乗り継いで故郷の茨城県に向かった。
引き揚げ後、生活が貧しく学校に行くこともかなわなかった。地元名産の「結城紬」の機織りをすることになった。必死で働き、手に職をつけた。
2年前、自分史をまとめ、引き揚げ体験も記した。
荒れ狂う大海原での体験談を読み、思い出したことがある。
若い頃、1973年から75年くらいの間のことだった。
北海道に行ったから、下北半島や津軽半島なども行ってみようということで、まず恐山がある下北半島に行ったときのことである。
佐井村に泊まり、仏ケ浦を目指し、釣り船のような小型船に乗り無事に着き、奇岩を眺め長居することなく、脇野沢行きの船が出るというので乗船したのである。
乗ってきた船より大きくなったから安心していたが、まさに次第に海が荒れだしたのである。
もともと三半規管が弱く、乗り物酔いしやすい体質だったが、この時は、自分の一生でも本当に怖ろしい体験だった。
内海さんの体験である高い山から谷底へ落ちるということを何回も繰り返すのだ。
乗っていた船には座席があり、前席の背についている取っ手につかまったまま、目をつぶってただ、神に祈るだけだった。
怖くて船酔いできないほどで、脇野沢に着いたとき、脚がふらつき、食堂で食したラーメンで生き返ったことを思い出した。
朝鮮半島から日本へといえば、自分の体験の比ではない距離だから、それは怖かっただろうと推察する。
お互い運が良かった。
満州や朝鮮半島に渡った人たちは満蒙開拓団とは別に仕事を求め、あるいは仕事で行かなければならなくて渡った人も少なくなかったはずである。
内海さんの父親の引き揚げの判断、決断は見事で、1945年8月に戦争に敗れ、状況が一変した朝鮮半島では、長く留まれば、侵略者、その手先として、酷い目に遭うことが目に見えていたはずだ。
だから、密航船ではあるが、敗戦の年の秋、引き揚げを敢行したのは判断としては正しかった。
ただし、運が良かったから船が転覆しなかった。
しかも、引き揚げ後、貧しかったからにしても、結城紬の機織りを身につけ、手に職をつけられたこともまた生きるためのよすがとなったことであろう。
自民党の裏金、脱税議員が憲法を改めようとしているとき、裏金で法律を守らないことが明白となった自民党の議員で、差別発言を繰り返す女がれいわの大石晃子さんの質疑にヤジを飛ばしたということで、検察はこの女を逮捕すべきである。
法律を守らない人間が憲法を改め、日本を米国の戦争に巻き込まれる国に変えようとしていることが許せない。
そうさせないために、内海さんの体験談など語り継ぐ戦争がきっと、役立つはずだ。