水俣病の公式確認から68年となった1日、水俣市では、患者団体「水俣病互助会」による慰霊祭が営まれた。
患者の遺品などが納められている水俣市の「乙女塚」での慰霊祭はことしで44回目で、水俣病の患者や遺族などおよそ60人が参列した。と5月1日のNHKが伝えている。
参列した人たちは、かつて原因企業のチッソと交渉する際に歌われた「御詠歌」を詠じたあと、読経にあわせて焼香をして、水俣病で犠牲になった命に祈りをささげた。
水俣病公式確認の年に生まれた胎児性患者の坂本しのぶさん(67)は、「水俣病は終わっていません。胎児性患者だけでなく、症状の比較的軽い患者など、いろいろな被害者がいることを覚えておいてほしい」と訴えた。
祖母と両親が水俣病の患者で、裁判で被害を訴えている佐藤英樹さん(69)は、「国や県は、水俣病問題を早く終わらせようとしているように感じる。被害者に対してきちんと向き合ってほしい」と訴えていた。
1956年5月1日。2歳11か月で「原因不明の疾患」として熊本県水俣市の水俣保健所に届けられ、水俣病公式確認のきっかけとなった小児性患者・田中 実子 さん(70)は、寝たきりでしゃべれず、ヘルパーが24時間態勢で命をつなぐ。長年支えてきた長姉は2023年、亡くなり、義兄の下田良雄さん(76)がヘルパーの助けを得て支えている。平均年齢が80歳を超えた認定患者に、支える家族らの高齢化という課題がのしかかる。と5月1日の読売(白石一弘記者)が伝えている。
実子さんら水俣病の認定患者は、1973年に原因企業のチッソと締結した協定に基づく補償を受けている。医療費はチッソが全額負担するが、ヘルパー派遣のような福祉については、介護保険で患者側が一部を負担する必要がある。支援者側は改善を求めているが、チッソ側は「協定を遵守している」との立場を崩さない。
熊本、鹿児島両県の認定患者は3月末現在、2284人(2055人が死去)で、生存する229人の平均年齢は80・4歳に達した。良雄さんは「多くの認定患者が老々介護の問題を抱えている。国や熊本県も課題の解決に向け、主体的に動いてほしい」と願う。
昔からそうだった。
お上は冷たくて、強い立場の原因企業寄りで患者という弱い立場の人間に寄り添おうという気持ちはみられないものだった。
国、県、市で働く公務員は、水俣不知火の海の魚は食べなかったのだろう。
仮に、魚を食べて、水俣病になっていれば、当然、患者寄りの姿勢で事にあたるはずだからだ。
母親の胎内で水俣病になった胎児性の患者坂本しのぶさん。と自分の連れ合いが同い年だから、生まれてから重き荷を背負わされて生きて来なければならなかったことを想像するだけで気が遠くなりそうだ。
生まれてから2歳11か月で水俣病を発症した田中実子さんは寝たきりで、医療費は原因企業のチッソが負担しても、介護保険適用だから、自己負担があり、この負担をチッソが負担すべきであるにもかかわらず、チッソは知らん顔で、約束を遵守しているなどといっている。
許せない!
公式確認された5月1日、毎年慰霊祭が水俣の埋め立て地にある海浜公園にある慰霊碑と高台にある乙女塚で行われている。
海浜公園は行政が主催し、乙女塚では患者団体「水俣病互助会」が主催する。
乙女塚は高台にあって、2017年6月にお参りに訪れた時は、砂利道で、雨が降った後で泥濘もあって歩きにくかったから、車いすの坂本さんは、サポートしてもらわなければ上がれないが、参加すれば、「水俣病は終わっていない」といつも訴えてきた言葉は重い。
患者は何も悪くない、ただ魚を食べただけだから、過失すらないわけで、一生苦しみ続けなければならない患者の気持ちにチッソも行政も寄り添う姿勢がみられない。
何故なのだろう。
その熊本に2016年大地震が発生し、あの熊本城さえも壊れた。
1637年にはキリスト教系農民などによる島原の乱、島原天草一揆がおきている。
水俣条約ができて、水俣は世界の歴史に名前が刻まれることになった。
水俣病を他人事としてみていると、必ず、また、日本のどこかで同じようなことが起きるような気がしてならない。