2024年03月31日

GIベイビー供養のために墓参り

 コロナ禍が始まった2020年から2023年までどこにも出かけられなかった語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚ではあるが、ついに、復活!

 2024年3月31日、遅れていたさくらの開花だよりがようやく流れ、季節外れの初夏のような気候に誘われるかのように横浜は根岸にある外国人墓地にあるとされている所謂GIベイビーの墓に行き、供養のために尺八を吹き、祈りを捧げてきた。

 京浜東北、横浜線から連絡している根岸線の山手駅から登り坂を歩くこと5分くらいの高台にあるのだが、墓地より高い地点に仲尾台中学校があり、中学校校舎からは墓地がよく見渡せるはずだ。
 公共施設のようなものだから、管理人が常駐しているらしいのだが、日曜日だから休みのようだった。
 入苑するとすぐに「片翼の天使」のブロンズ像が迎えてくれる。

 ここを訪れるあたっては、「片翼の天使〜根岸外国人墓地〜華やかな港都YOKOHAMAの影PART2」というWEB情報を頼りにしている。

 墓地の案内板が門の前にあるのだが、1988年に横浜山手ライオンズクラブが創立20周年記念として寄贈したもの。日英2か国語で書かれた文面はライオンズクラブと横浜市が協議して作成された。しかし、2000年の補修時
市が文面を書き換えた。

 (2015年8月12日の神奈川新聞によれば、「第2次大戦後に外国軍人軍属と日本人女性との間に生まれた数多くの子どもたちが埋葬されている」という英文の記述が市が案内板を補修した2000(平成)12年に「第2次大戦後に埋葬された嬰児(幼児)など、埋葬者名が不明なものも多い」と書き換えたのだという。
 
 GIベビーをめぐっては墓地に隣接する市立仲尾台中の元教諭で郷土史研究家の田村泰治さん(78)が長年調査に当たってきた。墓標のない無数の小さな十字架が不幸に産み落とされた子どもの存在をうかがわせるといい、墓の元管理人の証言も得てきた。
 毎年11月には住民と生徒らが墓前祭を続けている。

 墓地は三層というのか石段で昇降できるようになっているのだが、後期高齢者にまもなくなる自分にとってはきつい階段だった。
 1202体埋葬され、墓碑、墓標が150余りとしかないとWEB情報では書いてあったが、広い墓地の割に、空き地が目立つのは事実だった。

 アルファベットばかりの墓碑に日本語も見かけるが、なるほど、生まれてすぐになくなったベイビーの墓は容易にみつけることはできたが、田村泰次郎さんが地域の住民や管理人から得た白い板の十字架の墓標があるわけではないので、どこにGIベイビーの墓があるかわからなかった。
 一回りして、墓碑の数が少ない場所が嬰児を埋めるのに適していると判断し、そこで、お参りしていたら、黄色い蝶がどこらからともなく飛んできて、飛び去ったのを見つけ、あたかも、嬰児たちの魂が鬼哭啾啾の後、飛び立つ様のような情景が頭に浮かんだ。

 
 横浜の外国人墓地といえば、観光スポットにもなっているくらい著名な墓地がある一方で、ほとんど、お参りしている様子がうかがえない根岸の外国人墓地は遊女や女郎と呼ばれし女性たちの供養のために訪れる無縁仏の用にお参りし甲斐がある。
 誰も訪れる人がいないからこそ、歴史にうずもれさせてはいけない進駐軍ほとんど米軍兵士だがと所謂パンパンなどと蔑まされて呼ばれてきた女性たちとの間で、誕生を歓迎されずに死んで行った嬰児たちの供養は今を生きる我々の務めではないか。

 山手駅から関内に向かう。
 駅から歩いて5分くらいの関内陵苑という墓地ビルに行き、叔母の墓参りをすませる。
 お参りするだけで300円支払うというのは初めてのことだが、スイカみたいなカードを借用し、カードで位牌が出てきて,お参りを済ませるとボタンを押し、扉が閉まるという初めてのお参り体験をした。
 時代は変わった。
 晩年寂しく暮らしたであろう叔母には、般若心経を唱え手を合わせてきた。

 死んだ後のことなど自分にとってはどうでもいいことのような気がするが、墓参りすることで覚えているよということは故人に伝わるとも考えているので、これからも、慰霊、供養の旅は続けるつもりだ。