2024年03月28日

人の死 ありふれていた時代の記憶

 語り継ぐ戦争、「引き揚げを語る」を連載し、反響があったことを伝える読売(山田朋代記者)が3月27日に伝えるのは当時12歳で15歳の兄と中国大連で終戦を迎え、二人で必死に働いて家計を助け、引き揚げを待った体験だ。

 京都府の船津富美子さん(91)は大連の高等女学校の1年生だった時、1945年8月15日、日本が戦争に敗れたことを知った。だんだん生活が窮乏し、道端に倒れている日本人を見かけるようになったが、「人の死がありふれていた時代。誰かが路傍で死んでいても、気にする余裕はなかった」そうな。

 売る物がなくなり、兄と働きに出たのはソ連の会社が運営する漁網工場。氷点下にもなる冷え切った室内で、糸繰機で4本の糸を1本に繰り合わせて漁網づくりに携わった。上手く繰ることができず、機械を回す度に糸が切れしまう。その糸をつなぎながら、涙がこぼす日々だった。
 それでも、47年1月、家族5人が佐世保港に引き揚げることができた。
 「実体験して詳細な記憶を証言できるのは私たちの世代で最後かも」と身近な人に体験を語り継ぎたいと願う。
 中国語を習っていた縁で、地元自治体の担当課から頼まれ、中国残留孤児の自立支援に携わっていた。帰国した残留孤児の多くは日本語に苦戦していた。彼らに寄り添い支援してきたがとても他人事とは思えなかった由。


 語り継ぐ戦争では、戦争だから兵士の戦場体験が頭に浮かぶかもしれない。
 しかし、団塊の世代の一員で、実体験がない自分は民間人の戦争体験、例えば、満蒙開拓団など外地と呼ばれていた場所で、戦時中はそれなりの満たされた生活をしてきた人々が、敗戦で地獄を見てきたことに関心が向く。
 最大の関心事は、日本の男が日本の娘たちをソ連兵や匪賊、朝鮮人たちの性奴隷に差し出し、自分たちは逃げ延びたことである。
 併せて、性奴隷にされたかどうかは別にして、ソ連兵や中国人、朝鮮人から性暴力を受け、生憎梅毒に感染したり、妊娠してしまった女性たちが博多や佐世保に引き上げてから梅毒の治療、中絶手術を受けたことである。

 岐阜県の黒川村の開拓団からソ連兵将校たちに性奴隷として差し出された娘たち15人の中から帰国できた女性の中から証言者が表れ、ついに表沙汰になったのだ。
 中絶手術を担った二日市保養所では聴き取り調査を行っていて、中に、娘たちが避難民の集団の男たちから性奴隷として差し出されたことを証言している記録も残されている。
 このことは再三書いてきたが、日本人同士と言っても、差別というか、弱い立場の女性がさらに酷い目に遭ったのだ。

 ソ連兵などからの性暴力を受けた被害者の女性がその事実を証言することはまずほとんどない。
 あっても、自らは目撃者として証言するのみである。
 引き揚げ体験を投稿する人で、自ら受けた性暴力を証言する人はいない。
 ここが一番重要なのだ。語り継ぐ戦争では。
 証言できないほど酷い目に遭った人は殺害されたか、自殺したか、あるいは黙して語らずということなのだ。
 つまり、何年経ってもしゃべれないほど酷い目に遭った人にとっては証言することはそれほど大変なことである。 
 それだけに、黒川村開拓団で起きたことを証言した女性の勇気にエールをおくりたくなる。

 引き揚げ体験記を読むとき、読者は語れないことがあるのだということを想像しなければならない。
 自ら朝鮮半島からの引き揚げ者であることを公表している作家の五木寛之さんは「他者を踏みつけ、口にできないことをしてきたから引き揚げて来られた。その意味では、自分は悪人だ」と自戒を込めて語られていた。
 作家として著名であるが、引き揚げ体験の詳しいことは書きたくないというか書けないともコメントしている。