2024年03月05日

家族の記憶 1枚の集合写真 残留孤児 

 写真で伝える「ズームアップ」3月4日の読売(片岡航希記者)が夕刊で伝えたのは戦後79年を生きる残留孤児と呼ばれた小林栄一さん(84)が日本人の証として大切に持ち歩いた1枚の家族の集合写真と、東京江戸川区の都営住宅で週2回デイサービスに通い穏やかに暮らしているという小林さんが被写体となっている。

 満蒙開拓団の一員として大陸に渡った両親の許、黒竜江省で3人兄弟の長男として生まれたが、末弟は亡くなり母も病死。終戦直前出征する父から「お前が日本人である証拠となるから大切に持っておきなさい」と写真を渡された。
 孤児となり、弟は別の中国人に引き取られると過酷な日々が始まった。家をたらいまわしにされ、学校にも行けず、石炭拾いの労働を課される毎日。それでも、写真だけは父の教えを守り大切に持ち歩いた。
 46歳で中国人の妻と3人の子どもと帰国。清掃の仕事などを必死に続けたが、言葉が話せず苦労を重ねた。

 もう一人は名古屋市の佐々木麗さん(84)が名古屋市の墓地で満州で死別した両親の墓に「我又来了」と中国語で呼びかけお参りする姿が被写体となっている。


 中国残留孤児の帰国が本格化して40年以上が経過し、平均年齢が85歳となり介護支援が必要になっているが、「戦争がなければ残留孤児となることはなかった」という小林さんの気持ちが語り継ぐ戦争だからよく理解できる。

 先般、山田火砂子監督の『わたしのかあさん―天使の詩―』を観ていたことを書いた。
 山田火砂子監督は『望郷の鐘 満蒙開拓団の落日』で、中国残留孤児の肉親探しに尽力し、「中国残留孤児の父」と呼ばれた山本慈昭の人生を描いている。
 山本慈昭は信州阿智村にある満蒙開拓平和記念館のすぐ近くの高台にある長岳寺の住職だった。
 阿智村から満蒙開拓団が送られることになり、国民学校の教員を兼ねていたことから、子どもたちの教師役として妻と二人の娘と教え子たちを連れて満洲へ渡った。
 1945年8月9日未明のソ連の満州侵攻侵略で逃げ遅れた満蒙開拓団は集団自決に追い込まれたり、娘を性接待、性奴隷としてソ連の将校たちに差し出したり、両親が殺され、孤児となった子どもは中国人に引き取られたりした。
 山本慈昭は敗戦後、シベリアに抑留され、帰国後、妻と二人の娘の消息不明を知らされ、阿智郷開拓団215人のうち8割は亡くなったとのことだった。
 1964年(昭和39)年に訪中した山本は中国に子どもたちが残され、肉親に会いたがっているということで、残留孤児のことを知り、帰国のために尽力するのだ。
 結果、多くの孤児たちが帰国でき、亡くなったとされていた長女とも再会することができるのだ。
 映画を観て阿智村の満蒙開拓平和記念館を訪れ、長岳寺に行き、望郷の鐘を撞いてきたことを思い出した。

 語り継ぐ戦争の立場としては、山崎豊子『大地の子』(文春文庫)が中国残留孤児のことを知るには最適だと思うが、読書はどうもという向きにはTVドラマ化され、評判となっているので、こちらを視聴するといいかもしれない。(残念ながら見逃してしまっている)

 ロシアがウクライナに侵攻侵略し、ウクライナの子どもを拉致したのは、ロシアによる犯罪であるが、連れ去られた子どもが気の毒でならない。