2026年08月13日

転落事故 家族が支えに

 「時代の証言者」という長く続く連載が読売にある。
 著名人が語る人生録と解釈しているが、興味のある人物や興味のあることが書かれている時は読んできた。 
 その8月11日、「柔の道を生きる」 山下泰裕 28 を読んで激しく心を揺さぶられた。

 柔道の世界で、その名を知らない人はいないというほどのビッグネームで、五輪の金メダリスト、全日本柔道連盟と日本オリンピック委員会(JOC)会長を務めていた山下さんが箱根の露天風呂で、2bくらい転落する事故で首の骨を折り、頚髄損傷で車いす生活を余儀なくされるようになった顛末を告白していたのだ。
 
 IPS細胞の治験にも参加するなど現代の医学最前線の治療を受けても、思うようにはならず、左手が少し動くだけで、首から下は動かない。苦しくてこのまま終わるのかな、それも人生と考えたこともあるという。

 山下さんを励ましてくれたのは家族だ。「生かされたのは何かやるやるべきことがあるからだ。役割りを果たすためにも社会復帰を目指そう」病院に来て懸命にそう語りかけてくれたのは妻と娘だった。
 自分より重度になると自発呼吸ができなくなる。今の形で生かされたことに、何かの意味があるのではないか。運不運や挫折は誰もが体験する。違いは起きたことをどう受け止めるかだ。そう考え前を向けるようになったというのだ。
 人生を振り返り、妻への配慮やいたわりが少なすぎた。人生で一番の反省点だという。
 次男が自閉症で、彼の存在は強者の論理ばかりで物事を進めてきたかつての自分の見方を見事に崩してくれた。人間らしさとは何かを教えてくれた。
 体が動かなくなって、それなのにほんのりとした温かみを感じる。自分がもっと大切にしなければいけなかった妻や家族の温かみである。
 自分は幸せなのかもしれない。
 生きていて佳かった。
 両手両足は動かずとも、生かされている有難みを感じるのは間違いなく今の方が多い。と結ぶ。


 語り継ぐ戦争だから、戦没、死没した人たち。負傷はしつつも傷痍軍人として何とか帰国を果たした人達。そして、戦争で精神が壊れてしまった人たちがいることを彼らに代わって発信するようにしてきた。

 山下さんといえば、柔道界においては勝者というか、強者の論理で物事を進めてきたとご本人が明かしている。
 その山下さんが事故で車いす生活を余儀なくされるようになって、支えてくれる家族に過去の至らなさと感謝の気持ちを公の場で表明している。

 れいわ新選組の山本太郎代表は政界引退とれいわ新選組の党名変更を仲間に託した。
 山本太郎代表は「生きているだけで価値がある」社会を作るということをスローガンに新しい政治を切り開いてきた。
 跡を継いだ「いのち」の山本ジョージ代表は党名に生きていることをそのままに「いのち」を党名にした。
 山本太郎代表は重度障害のある舩後さん、木村さん、天畠さんを特定枠を使い、国会に送り込むことに成功し、重度の障がい者でも、国会で活躍できることを証明してくれた。

 今、重度の障がい者になった山下さんにはれいわ新選組の精神を受け継ぐ「いのち」の山本ジョージさんとタッグを組み、「生きているだけで価値がある」そんな社会を作るための礎になってもらいたい。

 障がい者になる前の山下さんは選挙なら当然、強者の論理を進める自民党だったはずだが、今の山下さんは弱者のために頑張るように柔の神様が新しい命を与えてくれたのではなかったか。

 山下さんは「運不運や挫折は誰もが体験する。違いは起きたことをどう受け止めるかだ」と前を向けるようになったのは家族のお陰だと語っている。

 強者としての山下さんではなく、弱者としての山下さんと支える家族にこそエールをおくりたい。

 人は誰しも佳いときは長く続かない。
 アクシデントも当然起きるだろう。
 アクシデントが起きて、その人の真価が試されるのだろう。

2026年08月12日

原爆裁判 国際法違反判決 被爆者と弁護士たちの闘い

 NHKBSスペシャル「原爆裁判―被爆者と弁護士たちの闘い」の再放送があったらしい。

 「原爆は国際法違反である。1963年、東京地裁で画期的な判決が下された。「原爆裁判」。のちに、国際司法裁判所の勧告的な意見へとつながり、世界に核兵器の違法性を問う流れを生んだ。
 番組では、岡本尚一弁護士の資料をもとに原告の被爆者5人を追跡。母が原告であったことを初めて知った時田百合子さん。「下田ケース」として世界に知られた下田隆一さんの孫義則さんの証言から被爆者と弁護士たちの闘いを見つめる、」と㏋にある。


 語り継ぐ戦争であるが、まだまだ知らないことの方が圧倒的に多いことを思い知ることになった原爆裁判。
 原爆投下の違法性、被爆者への損害賠償を求めて提訴され、米国の植民地同様の日本における裁判所が頑張って、三淵嘉子裁判官らが国際法違反であるとの判決を下した画期的なできごとである。

 語り継ぐ戦争は、そもそも自分の生き方の問題である。
 矛盾だらけというか、必ずしも善が悪に勝つわけではないにしても、力が正義とばかりに攻撃する側に対し、攻撃された側が救いを求める手立ては事実上ないようなものである。
 国際紛争を解決するために、国連があり、国際司法裁判所があり、戦争犯罪を犯した個人を訴追する国際刑事裁判所がある。
 ウクライナに侵略し、兵士が性暴力犯罪を犯し、子どもを拉致したりした責任を追及されたプーチン大統領に国際刑事裁判所から有罪の判決が出ても、現実には捕まえることは難しい。
 もう一人の独裁者トランプ大統領は、自分のいうことをきかない国際関係機関の分担金の支払いを拒否し、その活動を妨害している。

 では、侵略戦争を防止することができない国連はあっても意味がないのかといえば、そんなことはない。
 当然、国際刑事裁判所から「Wanted」と指名手配されているプーチン大統領は自国にいる限りは安全だが、国外に出れば、逮捕される危険性が高くなるのだ。

 8月12日のまいあさラジオで、シリアの独裁者でロシアに逃亡、亡命したアサド元大統領にシリアの法廷で死刑判決が言い渡されたことを伝えている。
 ロシアが身柄を引き渡すかどうかわからないが、プーチン大統領が辞めれば、どうなるかわからない。
 だから、この死刑判決は大いに意義がある。
 何しろ、独裁者で人殺しであることは間違いないわけだから、何としても、死刑にしなければ、殺された多くの反政府の市民が納得しない。

 さて、原爆裁判である。
 原爆は非武装の市民を無差別に殺戮した戦争犯罪であるから、国際法に違反するなんて誰にだってわかることだ。
 ただ、国際法に反しているからといって、損害賠償など実効性を問われれば、被爆死した人たちから見れば、何も変わらない。
 それでも、国際法に反していることが定説となれば、核兵器を使いたがっているプーチン大統領にとって少しは歯止めの役目を果たしてくれるかもしれない。

 生きていた時代は誰も手出しができなかったソ連の独裁者スターリンの評価は歴史の中で見れば、殺人鬼に過ぎない。
 原爆を正当化する米国人だって、被爆の実相を知らないから、戦争を早く終わらせるためだったなどと言い訳しているが、ヒロシマ、ナガサキでの被爆者の実相を知れば、心ある人間なら、原爆投下はジェノサイドに過ぎないことがわかるはずだ。

 原爆裁判で名を遺した下田隆三弁護士たちは本当によくやってくれた。三淵嘉子裁判官も。
 死んでから、人は評価されることだってある。

 原爆投下の違法性と被爆者への損害賠償を求めて立ち上がった人たちに敬意を表したい。

2026年08月11日

切り捨てられた在韓被爆者の戦後

 NHK ETV特集「切り捨てられた被爆者、在韓被爆者の81年」を視聴することができたので書いておく。

 「81年前、米軍によってヒロシマ、ナガサキに投下された原子爆弾。当時、日本の植民地下にあった朝鮮半島出身者の多くも被爆した。
 その内2万人が帰還したとされる。しかし。彼らは戦後長く、日韓両政府から支援を受けられぬまま、貧困や差別、病に苦しみ続けた。
 近年、機密解除された文書から、日本政府がいかにし被爆者の間に線引きをしていたのか、詳細が明らかになってきた。
 国家の狭間で翻弄されてきた被爆者の戦後をみつめる。」と㏋にある。


 2009年8月にナガサキ、同年11月にヒロシマを訪れた時、朝鮮半島出身者の被爆犠牲者の慰霊碑を見つけた。
 植民地にされるということの意味がよく分かったのはプロレスの力道山だった。子どもの頃のヒーロー力道山は朝鮮半島出身者であることを隠していた。
 もし、朝鮮半島出身者だとわかってしまえば、日本のヒーローにはなれないからだ。
 プロ野球で400勝という不滅の大記録を保持する投手金田は先祖が朝鮮半島出身者であるが、出自を明らかにすることは現役時代には考えられないことだった。
 バッターで3000本のヒットを打った張本は在日で、ヒロシマで被爆していることを晩年になって明らかにしている。
 余談であるが、世界のホームラン王は台湾と日本人とのハーフであり、優れた選手に出自など全く関係ないが、朝鮮半島出身者が自らの出自を明らかにできなかったところに植民地下にあることの意味を考えさせれるできごとではある。

 公言しているように民族差別も含め、被爆者、水俣病、ハンセン病、エイズ、そして、出身の街による出自などによる差別をしないことにしている。

 そもそも、原爆投下が米国人による民族差別であることを訴えてきたが、ドイツには原爆を投下せず、日本にだけ原爆を落としたことがそもそもイエロージャップと蔑み、馬鹿にしてきたからではないのか。
 戦後も、日米安保、日米地位協定という不平等条約により植民地化され、傀儡化されている日本政府は米国に全く逆らえない。
 だから、朝鮮半島出身者の気持ちが自分にはよく理解できるのだ。
 
 日本人は真に身勝手な人が多い。
 家族の生活のために、身を売った女たちが戦前、戦後の日本にはいた。
 身を売った先がボルネオなどの海外である場合、「からゆき」「からゆきさん」と呼ばれたが、彼女たちが年季が明けて帰国しても、周囲から差別された。
 遊郭に売られた女たちにも同じことが言える。一度その世界に足を踏み入れると周囲から差別される。
 戦後米兵に身を売ったパンパンと呼ばれた女たちも差別された。

 被爆した朝鮮半島出身者が不当に差別され、被爆者手帳を交付されないことは絶対許されない。
 偶々、植民地化されたが、戦時中は特攻隊員として出撃した朝鮮半島出身者だっていたのだ。

 韓国人男性と結婚して渡韓し、身寄りをなくした日本人女性を長年保護・支援してきた福祉施設慶州ナザレ園が韓国にある。

 日本にいたときの理由や韓国に帰還した事情はともかく、日本で被爆した以上、日本人と同じ条件で治療が受けられなければおかしい。

 差別する側、差別する側、冷静に考えてみれば、紙一重のことではないか。
 困ったときはお互い様の気持ちが何より大事である。

2026年08月10日

米軍に原爆投下されて81年の長崎原爆の日

 米軍によって原爆が投下されてから被爆81年の「長崎原爆の日」となった9日、長崎市の平和公園で営まれた平和祈当時念式典には長崎県内外から被爆者や遺族、関係者が訪れ、先立った家族や仲間をしのび、多くの犠牲者を悼んだ。各地で追悼行事も行われ、参加者らは被爆について次世代に語り継ぎ、核兵器のない平和な世界の実現へ歩みを進めることを誓った。とメディアが伝えている。

 8月10日の読売によれば、平和祈念式典には初めて参列した東京都の遺族代表四辻美智子さん(85)は長崎市出身。爆心地から約1・5`の自宅付近で被爆した。
 東京在住の被爆者の団体「東友会」のメンバーでもある。「地元の思いを間近に感じることができた。時間がある限り平和に向けた活動に参加したい」と決意を新たにしていた。
 当時、4歳で何も覚えていないとは言うものの阪神淡路大震災の火災を伝えるTVを視聴していたとき、突然、人が焼ける臭いがしてきたという。多数の被爆者が焼け死んだときのことを体は覚えていたことになる。


 高市首相があいさつで。我が国の非核三原則について説明したが、これを堅持するとはついに約束しなかった。
 台湾有事では中国と戦争する構えを見せているのだから、核兵器を持とうと考えているということになろうか。
 30代の頃、村山内閣の時代、戦争における加害責任について、「反省を求められるいわれもない」と高市首相は平然と語ったそうな。

 当時のことを覚えている。嫌な女の議員だなと思ったが、まさか、後年首相になるとは思いもよらないことだった。
 人の痛みがわからない、わかろうとしない人間に被爆者の供養のイベントに出席してほしくない。
 ヒロシマで「高市は公園から出て行け!」とヤジられたらしいが、ヤジった人の気持ちが理解できる。

 侵略戦争で、自分がやったわけではないから、「反省を求められるいわれもない」と本当に考えているとするなら、リーダーの器ではない。
「高市辞めろ!」と叫ぶデモに集まる人の気持ちが理解できる。
 首相の人間性がよくわかったので、退陣を求めたい。

2026年08月09日

被爆を語り継ぐ被爆2世、3世

 英語で証言活動を行う被爆者の小倉桂子さん(89)の長男史郎さん(59)(広島市)が2026年春、外国人観光客向けの平和ガイドを始めた。「世界で平和の種を蒔いてきた母の人生を伝えていく」と誓う。と8月7日に読売が伝えている。

 被爆3世の東京大学4年牟田悠一郎さん(23)(東京文京区)は海外からの式典参列者の通訳を務めた。
 12年前に式典のこども代表として「平和への誓い」を読み上げて以来、平和と向き合い続けてきた。と同じ読売の8月6日の夕刊が伝えている。

 小倉桂子さんは8歳のとき、爆心地から約2・4`で被爆し、爆風で飛ばされるも大きなけがはなかった。
 広島平和記念資料館第3代館長を務めた夫の馨さんが1979年59歳で死去したのを機に、主婦だった桂子さんに海外からヒロシマの案内や通訳の依頼が来るようになった。独学で英語の腕を磨き、現在も世界各地で証言活動をしている。
 史郎さんは高齢の母を案じ、2022年に米国の大学で証言する桂子さんに初めて付き添った。
 桂子さんの話を聴き、父親が被爆者にインタビューした書籍を読んで、ヒロシマについて学んだ。
 2026年3月、会社を退職し、平和ガイドをスタート。

 牟田さんの祖父は爆心地から約1・8`で被爆。祖父の話を聴き、被爆が身近なものになっていく。
 こども代表に選ばれて以降、「自分が平和について何ができるのか」考えるきっかけとなった。 
 高校生のとき、核兵器廃絶を訴える「高校生平和大使」として活動した。
 大学生になって、核拡散防止条約(NPT)再検討会議のために渡米した被爆2世の通訳を務めた。
 海外からの式典参加者のために通訳を務めた牟田さんは「あらゆる人に被爆を我が事として捉えてほしい」と願う。


 よほど想像力が豊かでないと、被爆を我が事として捉えられる人は少ない。
 本を読み、映画を観て想像力を磨いてきたから、被爆を我が事として捉えているが、それでも、体験というのか経験者にははるかに及ばない。

 戦後81年の2026年。今頃と言われると苦しいが、中沢啓二『はだしのゲン』(汐文社)を買い求めて読むことができた。
 石牟礼道子『苦界浄土』(講談社文庫)を買い求めて読んだのも遅くて、自分の体たらくに恥ずかしさを覚える。
 込山正徳監督ドキュメンタリー『はだしのゲンはまだ怒っている』を観たのがきっかけであったが、映画を観たことで、原作を読んでいないことに気づかされた。
 ヒロシマの原爆を語るには『はだしのゲン』や『はだしのゲンはまだ怒っている』を観ていないと話にならないと断言できる。
 長く生きて、お迎えが近くなってから読んでも仕方ないということは全くない。
 生きている限り、いつ読んでも遅くはない。
 読んでいないことの方が恥ずかしいし、何のために生きているのかレベルを疑われてしまう。
 団塊の世代の一員で、戦争に反対、平和を希求するのは当然のことである。

 戦後、平和の危機的状況を招いている高市政権を打倒し、壊憲をさせてはならない。
 次世代に対し、我々世代の責任として、何としても高市政権を倒さなければならない。

2026年08月08日

ヒロシマのこどもとして行動する責任

 8月6日、広島市の平和記念公園で開かれた平和記念式典で、広島市立高須小学校6年の柿崎由宇さんと同市立高南小学校6年の河野和希さんが「平和への誓い」を読み上げた。

 私たちには、被爆体験を直接聴くことができる最後の世代として、当時の記憶を事実として受け止める使命がある。
 目をそらさず、知ろうとすること。
 悲しい現実でも向き合うこと。
 そこには、「生きたかった人々」、「生き続けた人々」の思いがある。

 私たちには、広島のこどもとして、行動する責任がある。
 相手の気持ちを想像し、意見の違いがあっても認め、受け止めること。
 平和への思いを、自分なりの方法で表現すること。

 一人一人の小さな行動が、平和への後押しとなる。

 平和とは、誰かからあたえられるものでなく、世界中の人々で創り上げるもの。
 こどもである私たちも、その一員として平和への一歩を踏み出す。
 かけがえのない「大切なもの」を、確かな希望を、未来へ届けるために。

 8月6日の読売夕刊によれば、柿崎さんは父の転勤で1年生の夏休みに東京から転校。初めての登校は広島市が平和学習の登校日とする8月6日だった。

 広島の平和学習の成果だろうか、小学生の「平和への誓い」としては、あまりも見事なもので、大いに勉強させてもらった。朝日新聞などメディアで紹介されていたので、語り継ぐ戦争の立場から、感謝の気持ちを込めて一部を紹介させてもらった。

 平和を希求する人々の理念が込められている日本国憲法を壊憲し、台湾有事には中国と戦争をするという高市首相と同じ人間でありながら、どうしてこうも平和への取り組み姿勢が違うのか。

 高市首相は総務大臣の時、TV局などが自分たちを批判する番組を放送するなら免許を取り上げると恫喝したことで知られる。
 SNSを使って、他者を誹謗中傷というかネガティブキャンペーンのようなことをやるし、平気でうそをつく。
 首相あいさつの時、会場から「高市は公園から出ていけ」とヤジが飛んだが、人柄がよい人物なら、こんなヤジを飛ばす人間はいない。
 語り継ぐ戦争の立場から、真摯に平和を願う子どもたちに期待するよりない。

 米軍に原爆を投下され、多くの人たちが被爆したヒロシマ、ナガサキ県民。地上戦で味方のはずの日本軍に守ってもらえず、米軍の鉄の暴風と呼ばれた艦砲射撃や火炎放射器で焼かれた沖縄県民。それぞれ平和教育がなされ、戦争に反対する土壌ができている。

 柿崎さんは東京からヒロシマに来た意味を胸に「平和への誓い」を読み上げてくれた。
 河野君は柿崎さんと異なり、ヒロシマが故郷としての思いを胸に一緒に力強く平和への誓いをアピールしてくれた。

 被爆体験者が退場しても、語り継がれた被爆体験は子どもたちが次世代に語り継いでくれるはずだ。
 二人を筆頭に、平和学習に取り組む関係者にエールをおくりたい。

2026年08月07日

『原爆資料館 語り継ぐものたち』

 月に一度の映画館行き、8月は、斎藤俊幸、立川直樹監督のドキュメンタリー『原爆資料館 語り継ぐものたち』を観てきた。

 昨、8月6日は1945(昭和20)年のこの日の朝、鬼畜米英の米軍によってヒロシマに原爆が投下されてから81年で、犠牲者を慰霊するイベントが開催されている。

 偶々、映画館が今日からこの作品を上映してくれたので、観てきたというわけだ。
 2009年11月、初めてヒロシマを訪れ、2015年4月再度ヒロシマを訪れることができた。
 原爆資料館は通称であって、正式には広島平和記念資料館だ。

 2回訪れても、TVの「ブラタモリ」のようなガイドがつくわけではないから、観光地のお定まりのとりあえず行ってきた状態だったから、一度、きちんと客観的に見学してみたかった。

 映画で印象に残ったのは、自分なりの原爆資料館における大きな出来事として、原爆資料館の沿革とでも呼べばいいのか。初代館長長岡省吾の被爆資料収集への取り組みがやがて原爆資料館建設へと被爆を語り継ぐ施設の建設ににつながったこと。
 自身が被爆者で、7代目の館長高橋昭博がオバマ大統領などに原爆資料館の見学を薦める手紙を綴ったこと。
 結果、2016年、ついにオバマ米国大統領のヒロシマ訪問が実現した。

 2023年には、G7サミットがヒロシマで開催されたが、原爆資料館見学は岸田内閣のアリバイ作りのような形で終わった。
 それでも、G7首脳がヒロシマにやってきて、形だけとはいいながらも、原爆資料館に入館した意義はあったはずである。

 原爆資料館の語り継ぐものたちは、被爆し、無念の思いを訴えることもできず死にゆくよりなかったが、その思いは無言ではあっても衣類など遺品を通じ、明らかに原爆の実相を伝えている。

 沖縄戦で県民を守る意思が全くなかった日本軍は県民に銃口を向け、投降しようとするものなら、後ろから撃ち殺した。
 沖縄の摩文仁の資料館で、県民に銃口を向ける日本兵のジオラマを観たとき、沖縄戦の真実を知ることができた。

 舞鶴の引揚記念館や、新宿の平和祈念展示資料館では、シベリアに抑留された兵士の様子、黒パンを切り分けるときの命がけの食料分配の様子に過酷な抑留生活の一端が伝わってきた。

 G7の首脳だって、人間である。
 心ある人間なら、首脳を退任してから、もう一度来日し、ヒロシマ、ナガサキを訪れる可能性がある。

 語り継ぐ戦争で、ヒロシマ、ナガサキの原爆資料館を見学した時の激しく心を揺さぶられた時の感情は死ぬまで忘れることはない。
 歴代館長、学芸員などスタッフの皆さんにエールをおくりたい。
 佳い映画だった。ひとりでも多くの人にお薦めしたい。

2026年08月06日

ヒロシマ、ナガサキで二重被爆した163人の運命

 「NHK二重被爆―知られざる163人の運命」を視聴して、1945(昭和20)年8月6日、米軍がヒロシマに投下した原爆に被爆し、理由あってナガサキに向かった人が今度は8月9日、米軍がナガサキに投下した原爆にまたも被爆したというアンラッキーな運命の人が163人もいたと知り驚いた。


 二重被爆者として知られるのは山口彊さん。公式に認定されているので知っていた。
 長崎の三菱造船に勤務し、広島に出張を命ぜられ、8月6日に被爆するも、勤務先の三菱造船に戻るや、今度は長崎で被爆してしまうのだ。
 こんなことがあるのか、俄かに信じがたい話であるが、長崎と広島は造船の街だから、造船つながりでなら、理解できる話である。

 2006年、青木亮監督ドキュメンタリー『二重被爆』に出演したことで世界に知られるも、生憎見逃してしまった。
 月に一度の映画館行きで、ドキュメンタリー作品を主に映画を観てきたが、語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を始めたのが2008年のことだから、、当時は、観る映画作品の情報がきちんと収集できていなかったのであろうか。

 運で物事を片付けるのは甚だ不謹慎であることを承知の上で、人生って明日のことは誰にも分らないことから、運としか表現のしようがない。

 二重被爆者山口彊さんは2010年1月、93歳で亡くなっている。
 著名人の被爆者で、ナガサキで被爆した美輪明宏さんは2026年6月、91歳で亡くなっている。

 運というか運命といえば、被爆者で体調不良を抱えながらも、90歳まで生きられたのは、二人には被爆者として体験を語り継ぐ役割が託されたのではないか。

 二重被爆者という一般的には考えられないことが起きてしまうのも人生というものかもしれない。

2026年08月05日

島に眠る被爆者の遺骨捜し、箏の音色で供養

 被爆81年ということで、瀬戸内海の似島(広島市南区)に眠る被爆者の遺骨を捜し続ける広島大平和センター研究員の嘉陽礼文さん(48)の姿があった。
 島の夕暮れ時、寄せては返す波音とともに慰霊の気持ちを込めて奏でる嘉陽さんの箏の音が響いた。
 80年以上の月日が経過した今も、多くの人たちが弔われることなくこの場所に眠る。という写真とキャプション付きで紹介されていて、心を揺さぶられたので書いておく。
 8月3日、読売(渡辺恭晃記者)が夕刊のズームアップの紙面で伝えてくれた7月上旬の似島でのひとコマである。

 沖縄出身の嘉陽さんにも、沖縄戦で犠牲となり、遺骨が見つかっていない親族がおり、他人事ではないと感じるそうな。
 箏の演奏はこれまでにミャンマーや平和記念公園の原爆供養塔前などで行ったことがあり、似島でも「人としてできることをしたい」と初めて奏でた。
 3日後、強い日差しの下、スコップで遺骨を掘り起こそうとしている嘉陽さんの姿があった。
 「弔われることなく埋もれたままの人たちがいる限り、あの戦争は終わっていない」と嘉陽さんの活動に区切りはない。


 似島に多くの被爆者が運び込まれたことを知らなかった。
 40代後半で遺骨を収集する。慰霊のために箏を奏でる。嘉陽さんに激しく心を揺さぶられた。

 語り継ぐ戦争、戦没者慰霊のための行脚を始めたのは2008年、還暦の頃だったから、自分より早く動き出している嘉陽さんにはまだまだ時間がある。

 平和記念公園の原爆供養塔の前で、自分も嘉陽さんと同じことを考え、「自分のできることで慰霊したい」と経を唱える代わりに尺八を吹いた。
 尺八と箏、奇しくも同じ邦楽器であるが、箏は持ち運ぶのが大変だから、慰霊のためとはいいながらよく奏でる気持ちになられたものだと感心しきりである。

 嘉陽さんの出身県、沖縄では遺骨収集といえば、ガマフヤーの具志堅隆松さんが奮闘されていて、ご一緒させていただくことになっていたが、コロナ渦で出かけるのもままならない間に、心身共に衰えてしまい、実現できないまま今日に至る。

 思い立ったが吉日という言葉があるが、やろうと思った時にやらないと後悔することになる。
 人生って思い通りにならないことは百も承知のはずだったが残念でならない。

 ズームアップというタイトルからして、写真が切り取る人生模様であるが、遺骨を掘る、夕暮れ時、遺骨を掘ったその場所で寄せては返す波の音をBGMに箏を奏でる姿は激しく心を揺さぶられた。

 嘉陽さんにエールをおくりたい。

2026年08月04日

ストーカーGPS被害者遺族は歓迎

 政府は28日、危険なストーカー加害者にGPS(全地球測位システム)機器などを装着させ、被害者に接近を知らせる仕組みの導入を検討すると明らかにした。と7月29日の読売(寺倉岳、藤原聖大記者)が伝えている。

 ストーカー被害の防止にGPS機器を活用している韓国では、効果がみられている。韓国では2008年9月から、性犯罪で再犯の恐れが高いと判断された人物らを対象に、GPS機器付きの足輪を装着して常時監視する運用が始まった。対象は殺人や強盗などに広がり、23年10月にストーカーの加害者も加わった。

 加害者が被害者の2㌖以内に接近した場合、被害者のスマートフォンに自動的に通知され、警察官らが臨場する仕組みだ。

 韓国法務省によると、対象者は2026年6月末現在、ストーカーの加害者311人を含む約5300人。運用開始以降、ストーカーの被害者が対象者から危害を加えられた事例は確認されていないという。


 GPSを悪用し、被害者の居場所を加害者が特定する話を耳にしたことがある。
 ストーカー事犯にとってはGPSは殺人など凶悪犯罪抑止に効果があることは、韓国の実践で証明されている。
 市民が犯罪者から守られない社会では、政府が役目を果たしていないことになってしまう。

 卑劣な性犯罪のニュースが流れる、お騒がせする国として、インド、韓国が頭に浮かぶ。
 治安を預かる警察が性暴力を繰り返す犯罪者から市民を守るため、韓国が先進的にGPSの装着を始め、今ではストーカー事犯でもGPSが使われ、目立った事件が起きていないという。
 効果があることが証明されている。
 
 ストーカー事犯で、被害者が座して死を待つような社会では、安心して生きていかれない。
 かといって、まだ、犯罪を起こす前から、ストーカー犯を予防的に拘束するというのも行きすぎである。

 ストーカー殺人防止のために早急に、GPSを導入すべきである。